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2009年09月19日

微笑

微笑 「昔は、こんな安らかな顔で微笑んではいなかったのに…。」  自嘲ぎみに苦笑を交えた声が遠くから漏れる。ミロのビーナスを前にして、鍔のある帽子を深く被り、黒いフロックコートに身を包んだ男が、この美神を懐かしそうに眺めていた。  いつもなら広いR美術館内には、洗練された美術品を見ようと人が絶えないのだが、平日で閉館時間が近いせいか、薄暗い館内には私と、フロックコートの男と白い石像だけが時間に置きざりにされていた。  ――笑っているのだろうか?  照明の加減からしても、アングルを変えてみても、私にはこの美神が笑っているようには見えなかった。  誰もが足を運び、その微笑を確かめようとする『モナ・リザ』ならまだしも、その古典的な肉体美で知られるミロのビーナスに対して、この男はなぜその表情にこだわるのだろう?  そんな疑問が私の頭をよぎった。  男は、私の顔色に少しの驚きと好奇心を認めたのだろうか? 静かにこう言った。 「お教えしましょうか? このミロのビーナスにまつわる伝説を。」  私は少しの間、躊躇したが、やがてコクリと、頷いた。  私のそんな様子を微笑をまじえた横目で見ながら、再び視線を美神にもどすと、懐かしそうに語り始めた。 「この美神はね、この世で最も醜悪な男の手によって、創られたんですよ…。」  もう何世紀も前のことですが、エーゲ海のメロス島にへパイストスという名の彫刻家がいたそうです。彼は生まれつき、左上半身に火傷のようなアザがありました。おそらく彼の両親も生まれつき、業を背負うこの子供に恐れをなし、皮肉にも醜い工匠の神の名を与えたのでしょう。  その容貌ゆえに、誰からも愛されず、父母にさえも疎まれる。  ヘパイストスは、呪われた自らの左上半身を憎み、そして美醜で人を判断する人の世を憎悪しました。当時のギリシャでは、自由で人間的なものこそが重視される傾向があり、独りよがりで、半獣人のようなへパイストスは、彼らの嘲笑と軽蔑の恰好の的になっていたのです。 「肉体的欠陥があるだけで存在を軽視される。ならば、とことん醜くなってやる。人々の口から吐かれる呪いの言葉と嘲笑を浴びたこの左半身。俺の存在理由がこの醜悪な左半身にあるのなら、この左手でお前らを超える美の結晶をつくりあげてやる。  俺が信じて、俺が愛して、俺しか愛さない ――そう、まるで女神のような女を。」  彼は、自らの存在理由を忌み嫌われるその左手に求めたのです。この時ほど彼は彫刻家であったことを喜ばしく思ったことはないでしょう。人は劣等感を優越感にかえる術を持っている。ただそれが彼の場合芸術であったわけですが、しかし、それは何と皮肉な手段だったことでしょうか。  その日以来、洞窟のようなアトリエの中では、絶えず槌で丸鑿を打ちつける音が響くようになりました。  邪悪な昂奮に蝕まれたその手で石を彫る。  二メートル余りの白い天なる種属の石に彼女は眠っている。  自然のままの無垢な堅実さと透明感を打ちやぶるように、へバイストスは大理石を彫っていきました。そう、まるで悪人の魂で天女をつくりだす幻影を夢見るように。  徐々に明らかにされる柔らかい輪郭、生々しい豊満な胸の起伏、発達した腰、右手は左胸を覆い、左手は平穏を保つように地を優しく静しています。下半身にまとわりついた衣、左足に重心をかけ、上体を左にうねり、そして右に曲げた巧みな技巧、計算されつくしたプロポーション、どこをとっても完全なる美の女神でした。しかし彼女の顔には、何かを憐むような悲しい表情が浮かんでいました。 「俺を忘れるな。お前を創った俺の左手を忘れるな。この世で最も醜い男の左手を。」  へパイストスは、台に登ると、女神の顔に左手をゆっくりとあてがい、何度も彼女に向かってささやきました。そしてその手をゆっくりと滑らせ胸部から腕にかけるゆるやかなカーブをなぞりました。  その姿は何と言ったらいいのでしょうか、ガラテアに恋するピグマリオン、いいえ、そんな純粋なものではありません。  彼は自らが美しいと認めた者を我が手で創り、そしてそれを汚していくような錯覚の悦びにひたっていたのです。この残虐じみた腐敗行為を繰り返すことによって、彼はよりいっそう自らの左手を尊び、彼女を愛したのです。  ある日、彼は冗談まじりに彼女に向かって、こんなことを言いました。 「きっとお前を見たら、誰もがお前を欲しがるだろうね。俺は、そんな風に創った。誰もお前から目をそらすことはできない。人はね、最も美しいものと、最も醜いものからは、決して目をそらすことはできないんだよ。 あぁ、俺はそれが見たい。俺を侮蔑した人間がお前を欲しがる姿を見たい。できるならお前の滅ぶまでの時間を俺にも与えてくれ。そうすれば、俺は醜い姿のまま浅ましい人間共を間近で見ながら食欲に生きてやる。この望みを叶えてくれるなら、俺のもてる全ての愛、全ての時間をお前に与えてやる。悲しい表情を浮かべた女神、お前が真に愛と美の女神であるなら…。」  瞬時、女神はその口角を上がりぎみに小さく微笑したかのように見えました。  この女神ができ上がる三日前から一人の男がへパイストスの所へ弟子入りしたいと現れました。猫背で猪首の男でしたが、ヘパイストスを師とあおぎ、本当に彫刻が好きなようでした。そして不思議にも、彼はその左手にへパイストスと同じような火傷のアザがあったのです。  その似かよった容貌ゆえに、彼も共感を抱き、アイオロスと名のるこの男を弟子にしたそうです。  ある月夜、アイオロスは用を足しに外へでていきました。深い闇だけの中に一つの灯がみえます。その明かりは、ヘパイストスがアトリエとして使っている石灰岩でできた鍾乳洞から漏れていたものでした。暗闇の中、アイオロスはその灯に向かって歩きだしました。 ――師はこんな刻限になって何をしているんだろう  そっと内をのぞいてみると、ぼやけた小さな灯の光に照らしだされる二つの顔が見えます。まさしくそれは、以前師が自慢げに見せた美神と、ひどく優しい面だちでそれを眺める師の姿だったのです。  彼は傷ついた左手を伸ばし、美神の顔にそっと手をあてがって愉快そうに口の端を歪めて笑っていました。まるで何かを蔑んで、勝ち誇った支配者の眼差しをもって…。  やがて彼は、そのただれた痕の残る指先で美神の口角をなぞり、そして徐々に軽い強弱をつけながら、滑り落ちるように長い首に触れました。 「お前は、この左手で創られたんだよ。覚えておくがいい。お前が美しければ美しいほど俺の左手は醜く、尊いものになる。いつかお前を美神と、うちあおぐ人々は、同時にこの俺の左半身を崇拝することになるんだ。」  彼はそう柔らかい声で語りながら、再び視線を指にもどすと、今度は彼女の首筋から流れるように広がる胸部へ、やがては巧みな均衡と、弱い起伏のおこつている腹へとなぞり続けた。  炎の加減であろうか――  へパイストスの手が美神に触れる度に、彼女の体は微かにうちふるえています。  アイオロスは、この光景から日がはなせませんでした。  師の偏執的な作品の愛し方。憎しみにも似た行為。  昔、あの美神を見てへパイストスの弟子になろうと決心したアイオロス。師と同じ傷を持つ自らの左手でも、あのような像が彫れればいいと望んだのに、何と言うことだろう。あの像は美神ではなかった。毎夜毎夜、師の左手によって汚されたただの偶像でしかなかった。一人の男の手におちた石の女でしか… アイオロスは、その眼で、鮮烈な美の崩壊を見た。 「何と俗物的な!俺は彼女を神聖な美神にもどさなければならない。その肉体が汚されたなら、せめて精神だけでも純粋な美神に。」  アイオロスはその夜以来、ヘパイストスの前から姿を消しました。  それから何年かたって、ミノアに宮殿を持つある王の使いが、へパイストスのもとを訪れました。何でも宮殿に飾る像が欲しいのでお前の彫る像が見てみたいということでした。  ヘパイストスは、ためらうことなくあの美神を王に献上し、かわりに自分は王の皇女を妻にもらいました。彼の美神は、宮殿の中庭に置かれました。ミノア王は、暇あるごとに像の傍に立ち、何時間も眺めるという日が続きました。 「お父様は、あなたの作品がたいそうお気に入りのご様子よ。あの像の傍を離れようとなさらないわ。」 「そうかい。あの女神からは、きっと誰も目をそらせられないよ。俺はそんな風に創ったんだ。」 「自信家ね。」 「本当の事だよ。」  王の娘が俺に仕える。俺の左手に仕える。そしてあの女神は王に仕える。全く愉快だ。今、醜が美を超えたんだ。世紀の大逆転だ。…でもまだだ。これからだ。奪い合え、俺の女神。俺しか愛さないあの芸術を奪い合え!あの美神を作ったことこそが、俺の人類に対する復讐なのだから!    王の娘へレネとの結婚を前日にひかえた夜のことです。  へパイストスの家から婚礼の指輪が、ある男の手によって盗まれました。 男はその後、宮殿の階段をかけあがり、壁を越えて、あの美神が置いてある中庭へ侵入しました。そしてその女神の薬指に、盗んだ指輪をはめこむと、こう語ったのです。 「いいのか。お前の男は、お前を裏切って明日結婚するぞ。」 それから男は、火傷のあとのような左手を女神の頬にあてました。 『この左手を忘れるな。』  その夜、中庭から、石をひきずるような音がして、ミノア王は目を覚まし、急いで中庭へ向かいました。すると、どうしたことか、宮殿を静した姿で立っているはずの像はありません。かわりに数メートル先から、土に埋もれた大きな足跡が続いています。  不思議に思った王がその足跡をたどっていくと、何とそこには、男の首を絞めつけている石像の姿があったのです。 女神は穏やかな微笑をたたえて、この殺戮を楽しむように男の首を絞めつけてゆきます。男も随分前からこの出来事を待ち望んでいたように女神を受け入れました。そして力をゆるめることのないその白い腕を眺め、その先にある指輪を想い死んでゆこうとしているのです。  その光景は、互いが互いに認め合った殺戮行為を思わせました。いつもなら、物悲しげな表情を浮かべていたあの女神も今は自らの運命をかえようとする一人の女としてそこにありました。そして男もまた、女神の表情が徐々に穏やかな微笑にかわってゆく様子を、さも愛しげに眺めていたのです。  王はしばらくの間、動けませんでした。この二人の殺戮行為を前にして、あの美神は、ますます美神になってゆく気がしていたからです。しかし、その行為こそ、王の溺愛ぶりを何と鮮やかに裏切ったことでしょうか。  王は下賎の者が使うまき割り用のオノをつかむと、嫉妬に狂う男の如く彼女の両腕めがけて、たたきつけました。  だが時すでに遅く、男は細く瞳を開いたまま死んでいたのです。  まるで、最後の一瞬まで、彼女の顔を忘れないような微笑みを浮かべて。  それ以来、女神の腕は男の首を絞めつけたまま離れなかったのです。婚約指輪を指に残した腕は結局男と共に葬られたそうですが、その行方はわかりません。美神もその日以来、姿を消したそうです。  もちろん、男が誰であったかを知る者はありません。  ただその左手には、火傷のようなアザがあったらしいのです。 「狂信的な話ですが…。」 男はそう言いながらフロックコートのポケットから左手を出し、帽子をとって私の方を向きました。 「この像を創った本人が言うのだから間違いありません」  男の手と左の頬には、神の裁きにも似た焼印の跡が残っていました。 「この美神は、間違えたんです。俺ではなく、アイオロスとその罪を共有したんです。あれほど忘れるなと言っておいたのに、全くバカな女です。」  ロココ式の風潮を帯びた館内では、閉館時間がすぎようとしていた。ライトアップされていた美術品も、少しずつ闇に姿を消してゆく。そしてまた、眼前の美神の微笑も陰をもって暗闇に溶けようとしていた。  私はしばらく考えてのち、男にこう語った。 「美神が間違えたとおっしゃいましたが、果たしてそうでしょうか?もしその話が本当だとすれば、貴方は、この像が崩れるまでの間美神と共に永遠に生き続けるのでしょう。」 「ええ。」 「もしかしたら、この美神は、知って間違えたのかもしれませんよ。」  閉館時間がすぎたらしく闇の中では私の声だけが響き、今では美神の微笑をたしかめることもできない…。  

投稿者 つるぎ れい : 2009年09月19日 19:10

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