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2018年03月12日

赤穂の海はまだ満ちて

山育ちの子が海を知った
知らなければその深さも大きさも
わからないまま死んでいく
たった一日の出来事を
赤い水着を着た縁取り写真の子が
記憶を差し出す、午後五時九分の日没

赤穂海岸で俯きながら玩具のカジキで
アサリやハマグリを獲る、掘る、漁る、
私の顔は写真を捲るごとに泥にまみれている
浜辺では日よけ着を肩にかけた 若い母が
弟を抱えながら あやしている姿もあった

父と競って手を突っ込んだ腰下の海
集めた貝たちをポリバケツに入れてみたが
量り売りにあって
全部は持って帰れなかった 私たちの家路
父は亜麻色に灰色の斑点模様のついた
小さな巻貝を 私の手に握らせて
(こなしとったら、お父ちゃんと一緒やろ?
という、いつか来る嘘をお店で買ってくれた

あの浜辺から続く足跡と泥濘の下で
父の姿は 仏間に置かれ
強張った母の指が 洗濯物を折り畳み
そして 弟のいない家が佇んでいる
私の海は 何も生み出せないまま
乾いていくのだろう

山育ちの女の掌に 貝殻を置いていった人の
写真を眺めていると 指先から湿った水が
身体を巡り 私を濡らしていく

赤穂の海はまだ満ちて
赤い水着を着た小さな女の子が両手にたくさんの
貝を拾って私に差し出すのに
私は「ありがとう」すら 伝えられずに
嗄れた喉にこみ上げる
苦い潮を呑むばかり

※抒情文芸166号 清水哲男 選
入選作品(選評あり)

投稿者 tukiyomi : 22:22 | コメント (0) | トラックバック