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2015年02月24日

「鬼」。。。

歩く。歩く。。
歩いても。歩いても。。ピリオド。。。
真夜中の買い出し 捻挫した足で歩いても 恵方はない。

八方塞がりな時は天が空いている、と、
見上げた闇夜は 三日月の薄笑い。
私の見えない陰の部分を 時折擦れ違う車が
引き伸ばしては 引き殺して 逃げて行く。

歩く。歩く。。
後方からついてくる涙の粒。。。
私の姿を切断する横断歩道 白と黒の非情な厳しさ。
(こんな時間に家族に巻き寿司を。
(こんな時間に鬼退治。
(オニハ、ウチ、 オニハ、ウチ、

引き殺された私の影が呪え、と、指差す方向に 家族。
(お父さんが 眠れなくて暴れてる。
(お母さんが 泣いて 臥せってる。
(オニハ、ウチ、 オニハ、ウチ、、

歩く。歩く。。
交番に駆け込んで 「お巡りさん」、と、小声で呼んだ。
お巡りさんは パトロール。
締め切った家々の 巻いた豆の数をかぞえるために。
(節分には冬と春の隙間から 鬼がでるからね、、

歩く、すぐ前を 広報板に張り付いた 指名手配の鬼の首 無言。
ふるさとには、鬼がでるよ、
止まらない句読点のような接続詞、スマホからは、 声、声、声、

(怖いから田んぼに埋めてしまえ。
(こんなものを持っているから 私は便利に生きてしまう。
(コンナ、ベンリ、ナ、オマモリ、ヲ、

スマホのお墓に 御線香をたてて 水をまいて声がなくなると
私の両肩にのしかかる 不安。

(家には巻き寿司を待つ家族、
(豆を持って帰れば、それで私は、退治されてしまう。

背中の荷物が カタカタ 鳴る。
私が背負っているのは 何、
私が持っているのは、
私は 何、、。

(オニハ、ウチ、オニハ、ウチ、、オニハ、、、、

投稿者 tukiyomi : 15:19 | コメント (0) | トラックバック

おとぎばなし

大正元年生まれの祖母は、当時中学生だった私にはとても大きくて、
昔の家の水回りを守り続けるような人でした。

けれど、セイジ、とか、シソウ、とか、ヨロン、というものには無頓着で、
毎日お茶碗を洗うように、水に流して過ごしていきました。
父が祖母に、「おかあ、おやつ!」と言えば、
祖母は「これでもくろとれ!」といって、ブーーーーツッ!と、
一発、父に浴びせては、「屁は出で良し、鳴って良し!そこらの埃も、取れて良し!」と、
笑い飛ばすよな豪傑だったと、聞きます。
日本の教科書が、「はと」、「まめ」、と書ければ、女学生と認めた時代、
祖母の口癖は「千両蔵より子は宝」、でした。

けれど、平成二十七年。
祖母が死んで幾十年が経ち、おやつ、おやつ、と、
祖母の着物の裾を引っ張っていた父すら、世の中に追いやられていき、
とうとう寝込んでしまえば、無視できなくなった、
シャカイ、とか、シソウ、とか、ヨロン、とか、セイジ、とか、、、、。

介護保険を支払っているから、とか、よりも、ガイコクジンヘルパーを雇用しても、
人数が足りない老人大国、日本の国の片隅で、私の家は病院通い。

入院しても看護婦さんが、ツレナイのは、お金を握らせてないからだと、
どこぞの高級ホステスか倶楽部に通うかのように、錯覚していく父。
いいえ、本当はそういう仕組みになっていたのかのかもしれません。
とぼけてしまった父の話ですから、何とでも誤魔化せます。私も。病院も。

人の命が地球よりも重いなどと、教えた人は伝説になりました。
その説が本当の話であったならテンノウヘイカ、が死んでも、私が死んでも、
同じくらいの人が、同じ悲しみを持ってくれますか?って、
センセイみたいな人に聞いて回りたい。
例えば、お父さんみたいなおばあちゃんに。

ソウリダイジン、とかクニが決めた、ソシキ、とか、キギョウ、とかの
シホン、は、お金じゃなかったの?シホンと、キホンって、
どこですれ違っていったのかな?


「千両蔵より子は宝」って、言っていたおばあちゃんが消えた日、父はいい放つ。
「出ていけ!金さえあればお前の世話になんかなれへんわい!」
母が追い討ちをかける。
「私かって、お金さえあれば、あんたらの世話にはならんと、一人で快適に暮らせたのに!」


いつか、おとぎばなしに、なればいいのに。
蔵の建たない家の話。
役に立たない子供の話。

投稿者 tukiyomi : 13:15 | コメント (0) | トラックバック

長い赤

どす黒い青のままで
短い春を 終えることに憧れる女子高生は
制服の下に隠した 無邪気な残酷さと無気力を
折り畳んで 卒業する

ホタルの光り、といえば
見上げたマンションのベランダに タバコの光り、を
ポツリ、と思い出し
自分が小さく燃えては やがて棄てられる
吸殻であることについて安心する

手に持たされた一本の短い線香の薫りに酔うことは 容易い
(夭折することは 美しい。
(私ハ、惜シマレナガラ、死ンデユク。
(ダレカ、ワタシニ、ナミダ、ヲ、チョウダイ。

社会は汚い
働いたこともない 真新しい心臓でも引きずり出して
誰かに見せつけてやりたい、のに
私を産んだのは その汚水にどっぷり浸かってしまって
縮こまったみすぼらしい オカーサンの、お腹

長い赤が 私にまとわりつく
未だ 赤黒い炎の中に うずくまり
呼吸することさえ 一人では出来ない

(生きる事に 意味なんてないさ。
(だけど 生きてみる価値はある。
(すると長生きしてしまうから 厄介だがね。

外はいつまでも 脱水症状
私は足を引きずりながら 何もわからず闇雲に歩む

いつか私も母と同じく 窪んだ目をして 曲がった指で
なついてきた捨て猫にでも 諭すのだろうか

長い赤を生きること
生きているものすべてに 赦された赤のこと

投稿者 tukiyomi : 11:58 | コメント (0) | トラックバック