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2015年02月25日

ミオの星から 稲葉真弓

昨日、本棚を整理していたら、雑誌『アンサンブル』がたくさん見つかった。
かつて小山内彰子さんという方が編集者であった頃、よく私も寄稿させていただい
た雑誌で、発行はカワイ音楽教育研究会である。懐かしく思って、ページをめくっていたら
1992年10月号の巻頭に稲葉真弓さんの詩が載っていた。
かつて手元にこれが届いたときの、この詩から受けた深い印象を忘れていない。
あれからもう20年以上経ち、稲葉さんもすでに他界されているが…。

       ミオの星から                稲葉真弓

なんども生まれかわる星がある

闇に光り 闇に消えて 

ある日 秋の町にとどくのだ

あたりにはぼうぼうと

赤い夕日が燃えていて

その一点に

ミオの光はともるのだ

私は書こう あなたに

生まれ変わるための

長い年月について

そこにとどくときのよろこびと

消えるときのおののきについて

何億年も残るのは 私の体を包んだ

もう一つの金色の光であったことを

       ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””” 

ふしぎな詩だと思う。心が遠いところへ連れ去られていく。
最近彼女のエッセイ集『少し湿った場所』を読み、彼女の生きた
この世での時間と場所に、少しだが触れることができた。
この詩はいま稲葉真弓さんご自身にこそ、ささげたいと思う。   

投稿者 ruri : 11:23 | コメント (0)

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2014年07月05日

小母たちの谷底そのむかし 日嘉まり子

雨の降る昨夜、サボテンの花が開き、一年ぶりなので、懐中電灯をもって、何回も
バルコニーへのぞきに行った。小雨に濡れた妖しい白い花。直径10数センチある。
今日はもうしぼんだ花が雨に濡れている。
誰も見なくても、気付かれなくても、花はひとりでやるべきことをやっている…と変な
ことに感心する。

あの世の人たちも、この世で生き切れなかった自身の一日を、今も物語の続きのように、
この世のさまざまの形を借りて、私たちに見せようとしているのかもしれない。不透明で、
それ故に魅力に満ちたこの世界のありようを、巫女のように、語り続ける、日嘉まり子
さんの神話世界、想像力のこだまが行き交う語りの魅力に引き込まれている。
(6)から(9)までの小母たちの谷底の物語がこの号で展開されている。

 
   小母たちの谷底そのむかし(6)      揺蘭ーYOURANー2014より
                                                
                                                     日嘉まり子

亡くなった叔母たちは、風が湿り気を帯び静かに尾を引く日などには女人の体を借りて
この世に現れることがある。
ある時は商店の軒先で、山菜や餅や油で揚げた沢蟹をたくましく商っているのだった。
通りすがりに聞こえてくる会話の中の、最も耳に残る言葉がこだまする時、我々はどの
ようなつながりがあったのかがようやく判明することがある。
先行きはどうなってゆくのかを自分に引きつけて占うと言うこともある。
「静子さん」などと言う共通の知り合いの名前がふっと口に上って、郷愁のような同名
の叔母の姿が、女人の中に匂い立つように現れることがあっても驚いてはいけない。
細長く美しい草の葉の影のような声の叔母の、短かった生涯が流れおちてゆく滝の果て
の先まで、誰かが見送って行かなければ,口惜しさを残して旅だった何人もの小母たち
は何度も姿を現さなければならないだろう。
蝶やカゲロウや虹や、鏡の中の私たちの姿をして。    

投稿者 ruri : 10:53 | コメント (0)

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2014年05月17日

金色の午後のこと 稲葉真弓

今日はほんとに文句ない五月晴れだ。バルコニーではノカンゾウのつぼみがいっせいに
膨らみ、鉢植えのエニシダの黄色がそよ風に揺れ、チャイブがピンクの花ばなを咲かせて
いる(いつか朝のオムレツに入れてみたいと思いながら、まだ試してはいないけれど)。
こんな日にこそふさわしい稲葉真弓さんの詩がある。


      金色の午後のこと            
                                        稲葉真弓

ほんとうに生きたのは
たった一日だったのかもしれない
人生は流星のようだ
ぽかんと口を開いていた午睡のときにも
ときは均一に流れていて
ああ なんてのんきだったんだろうと思っても
もう遅い あの幸福な午後
かといって午睡以外になにができただろう
半島の庭のスズメたちの優しいついばみに魅入る目が
いつしか眠りに誘われたからといって


浜尾さんちのクレソンが一気に伸びた朝も
ビニールハウスのなかにときは流れ
窓辺にメジロの素早い飛翔が見えた朝も
翼はときの重力を必死にかきまぜていたのだ


もういちど生まれなおして
ほんとうに生きることについて
生きた時間について
あるいはいま生きていることの喜びや
この目の豊かなスクリーンに映されているものを
ていねいに包み直して
だれかに差し出すことはできるだろうか
なにもかも忘れていく
宿命のような人生のなかで
「いま」という ひかりの一筋をうけとること
包み直すことは


ああ あの午睡もまた
ひとつの金色のひかりだったのだと
いまは少し分かる気がするのだが……
スズメと大地を照らしていた 薄いひかりの筋だって
少しは見える気がするのだけれど……
あの幸福について
だれかと話すため いまいちど
すべり台の下の午後へと降りて行こう

   
 ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

それぞれの人にとって、降りていきたい午後はどこに?
ひかりの薄い一筋でくるみ、この詩をだれかに送ってみたくなる。

投稿者 ruri : 12:50 | コメント (0)

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2014年05月14日

メノウー水の夢 稲葉真弓

稲葉真弓さんの連作・志摩『ひかりへの旅』にはいくつも好きな詩がある。
読書会で最近読んだ『半島へ』の風景を思い出しながら、もう一度心の中で
岬への旅をした。

             メノウー水の夢
                                    稲葉真弓

酸性の雨のふる 降り続ける惑星に生きて五十年
濡れそぼった日々の記憶に
一本の傘が揺らぐ


「わたしたちも いつか 溶けていくのかしら


そういった少女の声はもうどこにもない
残った一本の傘は 骨だけになって
小さな石のかたわらで眠っている


古い傘に寄り添うような
かわいらしい水色のメノウよ
水を求めて傘の下に
すがりつくようにして転がっている


だれも知らないのだ
その石の中に かつて太古の水が閉じ込められていたことを
白亜紀の湿った大地にも やっぱり酸性の雨がふっていたことを
金色の朝日を受けるとき
濡れた羊歯の葉裏が薄緑の刃のように光ったことを


なんどおまえと遊んだことか薄い水を揺らしたくて
閉ざされた水の色を確かめたくて
夜の電灯を消したりつけたり
耳もとで乱暴に振ってみたりもした
すると 石は鳴った かすかに
雨を吸う音さえ聞いた気がする


わたしは歩きたかった その雨のなかを恐竜や 翼竜の巨大な足で
石を踏む つめたい大地を感じたかった


やがて
お前の内側の水はひからびた
骨となった傘と一緒に
わたしの部屋の玄関は お墓みたいにしんとしている


ねえ おまえ 水色のメノウよ
恐竜と一緒に歩く昼や
遠い遠いふるさとの 何度もの滅びと新たな地層を
なきたいほどに恋うる夜がある
ーわたしのふるさと
水を閉じ込めたこの惑星の
降り続ける雨の下で

    ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

先日、みんなと賢治の「貝の火」を読んだ。貝の火にはオパールの美しさが、よく
描かれているという。堀 秀道著の『楽しい鉱物学』を読むと、以下のような解説
がある。

《昔、浅い海、または湖の底に貝が住んでいた。やがて水が退いて陸地と
なり、死んだ貝の上に砂が積もっていった。そして貝をふくむ地層は地面の下深く
沈んでいた。地表は乾燥して砂漠化したが、地下には豊かな水の層がある。
この熱い地下水により、貝は溶かされていく。水の中にすでにたくさん溶け込んでいた
珪酸分が自然のバランス作用で、貝の中に遊離され、もとは石灰質だった貝が珪酸
質の貝に生まれ替わった。その後の地殻変動でこの地層が再び地表に持ち上がってきた。
かつての砂は固まって砂岩となり、その中にオパールになった貝がはさまっている。

珪酸と水を取り入れてオパールになった二枚貝は、外観にはまだ生物だった面影を留めて
いるが、縁の欠けたところから内部をのぞきこむと、宝石の風景が見えてくる。》と。

本には巻貝の化石からできたオパールの写真が載っていて、ふしぎな美しさがある。
賢治は石が好きで鉱物マニアだといわれている。この解説を読むと、小さな鉱物のなかに
閉じ込められた宇宙時間の結晶をいまさらのように感じる。

稲葉さんの詩の中で、「わたしは歩きたかった その雨の中を/ 恐竜や翼竜の巨大な足で/ 石を踏む
つめたい大地を感じたかった  という連から、私は賢治の小岩井農場の《ユリア ペムペル
…わたくしの遠いともだちよ わたくしはずいぶんしばらくぶりで きみたちの巨きなまっ白な
すあしを見た》の連を思い浮かべた。

大地を踏む大きなすあしと、小さなメノウのなかで鳴る水を聞く耳のことを想った。


投稿者 ruri : 16:59 | コメント (0)

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2014年04月28日

少年

送られてきた詩誌『アンドレ』10には詩のほかに、詩人論(黒部節子論6)、評論「詩とは何か」
「詩(私)的現代」などが載っていて、いずれも興味深く、一気に拝読しました。1998年創刊以後、
16年で、これが10号目である由、おめでとう!と申し上げたい気分です。これは宇佐美幸二さんの
個人誌です。私もこのところ一年に一冊くらいのペースで、同人詩『二兎』を出しています。特集のテーマによって、そのたびに未知の領域にいささかの冒険を試みることができ、自己啓発?できるのが、楽しみです。今、5号『象を撫でる』の編集中です。

さて『アンドレ』から、心ひかれた作品「少年」を載せたいと思います。

           少年
                                    宇佐美幸二

気配がした
トンボが羽をたたんで
車のハッチバックドアの溝あたりに止まっていた
ハグロトンボらしい


ぼくを横目で見ているように静止している
なにか言いたいの?
警戒する様子も見せず
たしかにこちらを窺っているのだ
かまっている暇はないので ドアをあけたまま
人に会いに出かけた


もどってみるとトンボの姿はなかった
あれは誰だったのだろう?
もう十一月になろうとするこんな季節に
山近い ひっそりとしたこの地で誰が
ぼくに会いに来たのだろう


そういえば今日は雨が降ったあとの
どんよりとした空気は
この世の構図がすこしばかり歪んでしまったようだ


ぼくはきっと
どこかに置きざりにされているに違いない


時間もなにもないこの世界の
ちいさく鈴の鳴る底のほうで

”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
 さりげなく書かれているような、このある日の少年の見た風景。 ちいさなトン
 ボと 少年の間にきらめいた一瞬の時間。少年だからこそ抱きうる、はるかな
 時間へのあこがれが、消えていくトンボの上に投げかけられ、特別な一刻を
 きらめかしている。”この世の構図が少しばかり歪んでしまったような一刻”
 ひとり置きざりにされた…時間。でもそこはこの世から外れた音のない世界、
 ではなく、” ちいさく鈴の鳴るこの世界の底”だった。

 大人たちが失った、でも、いつかは聴いたことのある鈴の音が詩人の耳の底に
 は、残響のようにひびいている。

 もうひとつの詩作品「妖精の悲劇」にも この世界に同化しきれず、夢幻の中をさま
 よっているような異世界の存在とのふれあい方が描かれ、そのような「気配」として
 のものたちの近くにこそ、この詩人の詩的居場所が置かれていることに気づきます。
 現代に巻き込まれている人間としての、 こわばった自意識がゆるむと、自分も、か
 つてはたくさんのちいさな気配のただなかをさまよっていたたことに気が付きます。
 
 
 

投稿者 ruri : 12:03 | コメント (0)

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2013年11月22日

新川和江詩集『ブック・エンド』より

新川和江詩集『ブック・エンド』には、心惹かれる詩が多く、宇宙的な時の流れと、
その時間をつかのまよぎっていく生きものの時間との接点に、しばし立ち止まって
いる自分がいた。

    黒馬
                                            新川和江

ベッド・サイドに
あの黒馬が来ている
目をあけなくても
濡れたたてがみから滴るしずくが
額に冷たくかかるので
それとわかる


あの日
やわらかな草地に二人を降ろして
湿原にはいって行き
ついに戻って来なかった黒馬
湿原には谷地眼(やちまなこ)といって
ワタスゲやミズゴケに蔽われ
薄眼をあけて空を見上げているような沼が
其処此処にあり
夏季でも零度に近い水温が
底深く嵌ってしまった動植物を
生きたままの姿で永久に保存するという
とすれば黒馬の
濡れた睫毛のかげのあの眼球には
最後に映した二人の姿が
あの日のままに焼きつけられて いるのかも


消息も聞かなくなって久しいが
あのひとの眠りの中にも
馬は時折おとずれるのであろうか
北国のみじかい春
草地に坐って二人は何を語り合ったか
今はもう 昔詠んだラヴ・ロマンスか
映画の中の一齣のようにしか 思い出せない
眠りの中に
ふと現れることがある黒馬だけが
つややかに若い駿馬のままで

   
    ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 谷地眼のところは、原文はルビですが、( )にしてしまいすみません。

 眠りの中にふと現れる、つややかに若い駿馬…それこそ、時が詩人に再び与えてくれる
ひそかな贈り物かもしれない。人はだれでも、あるとき、つややかな駿馬を野に放ったこと
があるのだから。

 谷地眼という湿原の沼が”夏季でも零度に近い水温”で、”底深く嵌ってしまった動植物”
を”生きたままの姿で永久に保存する”という、沼と、黒馬の眼に沈む、時の結晶化、その
アレゴリーのたくみ。

 私の夢のかたわらにも、いつかそんな黒馬が来てくれるといい。来るならば、馬はやっぱり
黒馬でなければ…。

        
              

投稿者 ruri : 14:52 | コメント (0)

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2013年11月06日

廿楽順治詩集より

おもしろい詩を見つけました。
廿楽順治詩集『詩集人名』からの一篇を載せたいと思います。

              
                   辰三(弟) 

そういえば辰三にはたしか弟がいた

蚊帳のなかで

あじの干物をつついているのをみた

うすい弟だから

みんなにはどうしても見えにくい

辰三のあとを

きいろい雨になって追いまわしていた

いつだったかおれも

遠足の帰りに降られたことがあるぜ

辰三が肺病でなくなったときだ

どこか南の方の外国へいっていたときいたが

いつ帰ってきたのか

弟は水の音になって酒屋の隅にいた

やっぱりまるまってあじの干物を食っていた

顔は暗くてみえない

辰三はいつも足のうすい弟をかばっていた

泣いて逃げて行くときの足音が

辰三そっくりであった

血はあらそえないな

あるとき

人を刺してあたりをどしゃ降りにした

それ以来

この町の夕日は

弟の足のようにうすくなってしまったのだ


      ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

この詩集は全編いろんな人名のひとが出てきて、半ば妖怪的、どこか自然現象的でもあり、
あるいは超時間的存在ともいえ、それでも彼らは、どこにもいそうな俗っぽさが
身上の人物たちだと思えてくる。そういう彼らの百鬼夜行ぶりに親しみを感じる。
自然と物質と人間の姿が重なり合い、入れ替わり合い、新しいこの世の表情を示すのは、
巧みなこの表現技術に拠っている。
一作一作、おもしろがりながら(ユーモアのこわさ!)読んでいくうちに、人間も自然のもたらす
一種の気配なんだと気が付き、ちょっと肩の荷が下りる気持ちにもなる。傑作だと思う。
(各行の脚を揃えることが必要なのですが、もしずれてしまっていたら、すみません!)

  

             

投稿者 ruri : 11:54 | コメント (0)

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2013年09月25日

ジャム煮えよ

久し振りに自分のブログを開けて見たら、夏の間すっかりご無沙汰していることに気が付いた。
やっとお彼岸過ぎて少し涼しくなりかけていますが、今度は台風襲来。このところ家の中の本の
山にお手上げになり、仕方なく毎日段ボールの箱に詰めては、廊下に積み上げている。
しばらく整理に忙殺されそうだ。

                 ””””””””””””””””””””””””””””””””””

 今日は坂多瑩子さんの詩集『ジャム煮えよ』(港の人発行)から好きな詩を一篇載せたいと思う。
こんなのりで、私も日常の手仕事をこなせたら、一刻一刻の時の質が変わってくれそうな気がするし、そうしたら”あたしがあたしでなくなる…”ときが垣間見えてくるかもしれない。
まずおもしろくて、リズムがよくて、幻想的次元に感覚の広がっていく詩集だ。
作品はほとんどどこにもあるような日常的な暮らしの場面で展開する。でも油断はならない。
足元が霧で、いつの間にか迷子になってしまうのだから。


       ジャム                    坂多瑩子


         ジャムをつくろうと

         りんごの皮をむいて

         大きなボールに

         うすい塩水をつくったが

         間の抜けた

         海の味がして あたりは

         ぼおっと霧がふかいから

         四つ割にして まだちょっと大きいから

         三等分にして 皮をくるくる

         もひとつ もひとつと 

         笊いっぱい

         くるくるまるまって

         皮のないりんごって

         案外ぼやっとしてるから

         赤い耳たてた兎が

         弁当箱のすみっこにいるのは

         とても正しいことのように思えて

         それでも早くジャムにしなくては

         半日ほど陰干し

         砂糖をまぜて三時間

         夜になってしまった

         りんごがりんごでなくなるとき

         あたしがあたしでなくなるとき

         ジャム煮えよ   

                

投稿者 oqx1 : 23:48 | コメント (0)

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2012年12月31日

岡野絵里子『陽の仕事』

しばらくご無沙汰しているうちに、もう大晦日になりました。
今年のさいごなので、好きだった詩集『陽の仕事』のなかからの一篇を載せたいと思います。


   光について
                              岡野絵里子



眠りの中で人は傾く

昼の光を静かにこぼすため

鮮やかな光景を地に返すために



その日 私は沢山の光を抱いた

駐車場に並んだ無数の窓 その

一枚ずつに溜まった陽の蜜

無人の座席に張られた蜘蛛の糸を

渡って行ったきらめくビーズ

それから

聖堂の扉から 歩み出てきた花婿と花嫁



籠一杯の花びらを

私たちは投げ上げた

喜びと苦しみの果ての声のように



薔薇のように束ねられて

高価な写真におさまる人々

私たちはどこから来たのか

囁く過去の影の中から

夜毎の孤独な夢の中から



それでも



朝の最初の光と共に 人は

あふれるように歩いて行く


    ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

新しい年を迎える前の夜に、あらためてこの詩を読み返す。ひとりひとり、どんな夢の
中を通り抜けていようとも、朝の光がさして来るたびに、あふれるように共に歩き出して
いけるといい…と思う。

投稿者 ruri : 21:23 | コメント (2)

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2012年11月13日

ツワブキ 村野美優

パソコンが半月ばかり修理に出ていたので、ご無沙汰しました。私は「ひょうたん」という詩誌の同人ですが、10月に届いた48号のなかに、好きな詩がありましたのでご紹介します。


        ツワブキ            村野美優

                                                                                                      
グリースでつやつやにした

深みどりのグローブで

まいにち夏の陽射しと

             
キャッチボールしたから



   

 ツワブキは秋になると

 からだじゅうに漲る

 太陽光で発電し

 頸をのばして

 道端や丘の裾を

 照らしはじめる    

            

 この家の裏扉にも

 今年はじめて

 ツワブキの明かりが灯った

 しゃがんで顔を近づけると

 あまずっぱい

 夏の子どもの匂いがした


 やがて冬の風に

 明かりを吹き消されてしまうと

 キツネ色の毛皮の帽子をかぶって

 ツワブキは旅に出る

 風に乗り

 雨に乗り

 どこかべつの片隅へ

 また陽射しと

 キャッチボールするために 


      ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””” 


擬人法的な書き方で、ツワブキの生き生きした表情とありようが、クローズアップされてきて
やあ、ツワブキ君!と話しかけたくなりました。親しい仲間だったことに気が付いたみたいに。
第一連と最後の連とが呼び合っていて、最後まで読んでもう一度最初の連に戻った時、わ、
やられた!という気になりました。3連の”夏の子どもの匂いがした”もいいですね!

村野美優さんの詩には大地にしゃがんで(あるいは寝ころがって、)草や花々や虫たちと同じ
位置から、この世界を感じ取る子どもみたいなまっすぐな感性が感じられます。それが読み手
の心を解放してくれるのかもしれません。

私はこのところ、読書会で賢治の童話作品を読んでいるのですが、彼の物語を読んだ後などに
道端の木々や草花や電線や人々といっしょに私も、物語の続きのなかを歩いているような錯覚に陥りかけます。植物だったら異世界に移植された感じとでもいうのでしょうか。

作者のみずみずしい感性とその描写が、読み手を日常から引き抜いて異世界へ連れて行く
…というか、ほんとうの現実の明度に気づかせてくれるのかもしれません。この詩を読んで、
ふとこの賢治体験を思いました。
      

投稿者 ruri : 11:11 | コメント (4)

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2012年09月11日

『夢宇宙論』より

信じられないほど長く雨も降らず、ただ暑さが続いている。むかし、ショーロホフだったかの
小説を読んだとき、「双子のような日々が」いつまでも…、という表現に出会い、慣れない表現
だったので、印象に残った。それがこの暑い日が毎日繰り返されると、突然よみがえってくる。
双子のように変わらない毎日の暑さ!だが、それどころかじりじりと暑さが増してくるように感じるのはこちらの体調のせいなのだろうか。やれやれ! 
と、つい村上春樹風につぶやいてしまう。

そんな日々に、柳内やすこさんの『夢宇宙論』の作品に触れると体感的に、涼しくなる気がする。

                   名前       
                                       柳内やすこ
 

ずっと昔
ずっとずっと昔
生まれる前の
光に満ちた天の草原の
小川のほとりで
私は誰かに呼ばれていたような気がする
それは
この世のどの言語にもない
低くて優しく根源的な響きで
短く繰り返される私の名前
無心に手で水を掬う小さな私を
そっと振り向かせ
微笑みをさせてくれた
遠い呼び声が
いつもそこにあった気がする


始まりの前であり終わりの後である世界には
ただひとつであり無数でもある名前で呼ばれる
白い子供たちがいて
いのちの灯されるまでの永い時を戯れながら待っていた


ずっと昔
ずっとずっと昔
呼ばれていたその名前で
いつかまた私が表される時が来るだろう
それは
この世のどんな音楽も奏でることのない
深くて荘厳な裸の調べで
誰かに歌われる私の名前


            ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

この世を去ってしまったら、もうモーツアルトの音楽がきけないな…と思ったことがある。
でもこのラストの連を読んで、ではそんな音楽を聞ける日がくるのだと…と思い直す。
世界が一つの音楽であればと思う。


           

投稿者 ruri : 10:09 | コメント (0)

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2012年09月03日

詩誌「ORANGE」から

中本道代・國峰照子・古内美也子さんの3人による『ORANGE』という詩誌はとても魅力的だ。

手のひらに乗るくらいの小さくて軽い詩誌だが、その内容は豊かで、詩を読むときめきを与
えてくれる。いずれもシュールな手法や新鮮な遊びにあふれ、根本には詩を生み出す自由
な精神があってそれらをそっくり読み手に手渡してくれる。
時折、風に乗って舞い込む一枚の葉のような詩人の夢の言葉に、私は愉しさと歓びをもらって
いる。


最近38号が届きましたが、今日はちょっと前の30号(2010年夏)から、中本さんの詩を
紹介します。

        五月の城                   
                                    中本道代
 


五月に行方不明になった子は
風が知っているか
毎日大きくなる葉の重なりの奥に
渦まいている小さな風の城
その中に迷い込んで
出口がわからなくなっているのではないか
小さな小さなからだになって

五月に行方不明になった子を
どうしたら連れ戻せるか
五月の向こうはただ風ばかり
ばらが首をかしげ
ジギタリスが笑いかけても
心臓は固い石になって縮む

五月に行方不明になった子が
佳いものをみんな持っていった
やわらかい皮膚
あたたかいからだ
敏捷なこころ
ひそやかな声
抱擁の幸せ


五月に行方不明になった子を
探してさ迷う
すべてを捨てて風の奥に
どうしたら入って行けるだろうか 


      ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””” 


五月は晴れやかな季節なのに、いつも何か大きなものとの別れと不安を感じる季節でもある。
五月の花、みずきの満開のときには、歓びと切なさが紙一重だ。やがて失う大きなものへの予感
におびえているように。      

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2012年08月20日

葉月のうた 佐藤真里子


                   葉月のうた
                                               佐藤真里子

    夏の野の茂みに咲ける姫百合の
    知らえぬ恋は苦しきものを
      万葉集(巻8・1500)大伴坂上娘女


   

    異界との境界が消える
    逢魔が時
    木陰に
    椅子とテーブルを出す
    微かな風が
    葉先をゆらす

    硝子の杯によく冷えた酒を満たし
    レタス、パプリカ、ラデッシュには
    オリーブ油と岩塩とバルサミコ酢を
    強く想えば願いは叶うもの
    飲んで
    もっと
    飲んでと
    
    

    影のわたしにもすすめ
    傾き濃さを増す陽の光が
    夏草をすり抜けて届く風が
    わたしをもゆらし
    「独りの酒はつまらないだろう」と
    とても遠くから耳元でつぶやく声


    草の海をかきわけてやって来る
    その声のひとと
    陽が沈む
    向こうへと
    泳いでゆこう


  ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””


この詩は佐藤真里子さんが、《今と昔のうた暦》という企画で、青森の新聞に連載しておられる
シリーズの1篇です。 昔の有名な和歌を枕にして、そこから現代の詩を立ち上げるという試み
を、今の紙上で読むと、何かまた未知の風が立ち初めたようで、興味深いものを感じました。
うたと詩の背景の空間が互いにこだましあって、異次元の詩的ざわめきを深めるようです。
食事や料理のシーンをとりあつかうとき、佐藤さんの腕がとりわけ冴え、その味付けが他の
追随を許さないことが多いのですが、この詩でも、逢魔が時の木陰の会食に、知らず知らず
まぎれこみ、酔いしれそうな自分を感じました。たのしくて、やがてかなしい、行方の知れぬ
飲み会のアラカルト。この企画の続きが待たれます。  

    

 

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2012年07月28日

ロッテ・クラマーの詩

詩人、英文学者、エッセイストである、木村淳子さんから送られてきた「ロッテ・クラマー詩選集」
(土曜美術出版販売)は忘れがたい訳詩集だった。まずロッテ・クラマーについて、木村さんの
あとがきから引用させていただく。

(ロッテ・クラマーは1923年にドイツのマインツで生まれた。代々この地に住む中産階
級のユダヤ人であった。1933年にヒットラーが政権をとると、ユダヤ人の生活がしだいに
圧迫されはじめ、1939年、ユダヤ人たちは児童救援船を仕立てて、約一万人の子どもた
ちをイングランドに送った。ロッテ(当時15歳だった)もその一人であり、それ以降、彼女は
両親に会うことはなかった。両親はポーランドに送られ、そこで命を絶たれたと考えられる。
彼女はその後イングランドに暮らし結婚し、詩を書くようになった。現在(2007年)までに
9冊の詩集がある。)

詩集にはナチの暴虐が落とした影、別れた肉親への屈折した思い、人間存在の根源に潜む
悲哀、同時にそれをいとおしむ気持ちがこめられているとも。

彼女の声は静かで、優しく、その表現はナイーブで繊細であり、親密さを感じずにいられない。
彼女は母国語であるドイツ語と、後から獲得した言語である英語との、バイリンガルである。
ドイツ語と英語、それは彼女によると「ひとつの方は…ほとんど詩のようなもの。もうひとつは
 まだ成就しない恋/触れてみたい温かい肩」…とバイリンガルという詩の中で書いている由。

以下は、木村淳子/ドロシー・デュフール共訳による詩集からの3篇です。


      テーブル・クロス

テーブル・クロス
白いリネンの目のあらい織物
いのちをなくしたもののように見える
糸はところどころ ゆるやかに裂ける
奈落に落ち込む夢から
覚めて
信じられずにいるときのような


この布もそのように擦り切れている
父方の祖母が 平和な時代に
織ったクロス
どんな辛抱づよい思いをこの織機で
彼女は織り込んだのか
ちいさな村のくらしぶり 大切な時間
彼女のかなしみを際立たせる


いま このもろい薄布にふれ 拡げ
そのうえに
私たちのワインとパンをのせる
布がゆっくりと命をなくしていくのを見ていると
かなしいのは それが裂けていくからではなくて
平和が壊れて 根無し草になる
その不安と恐れを感じるからなのだ


       
       赤十字の電報

赤十字の電報が
届いた
そこには恐怖 不安を秘めた
次のような文字があった
私は あえて知ろうとしなかったが
そこに隠されている残虐さを
今の私には理解できる
「引っ越さなければなりません
私たちの家はこの町から
なくなるのです
愛する子供よ さようなら」
どうして私にレクイエムなど
歌えるだろう
沈黙の暗い絶望のなかでー
あなたたちの受難 苦しみの釘と
ガスと墓とを美化して

       

         緑の喜び


初物の豌豆のさやをむく
緑の喜びー
先の部分を親指で静かに押す
すると莢は割れて
小さな緑の真珠が現れる
すばやく調理する 甘さと新鮮さ


毎年夏になると
私は それらがやさしくぽんと
口をあけてくれるのを楽しみにする
まだ若い莢から息が漏れ
鍋がたくさんの緑の約束で
満たされていくのを見る

投稿者 ruri : 10:21 | コメント (0)

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2012年06月16日

いつか別れの日のために(高階杞一詩集)

『いつか別れの日のために』(高階杞一詩集)が届いたのは、ちょうど蓼科への旅に出る直前だったので、鞄にいれてそのまま出かけた。短い旅だったが、その間ずっと読んでいたので、蓼科高原の緑の空気といっしょに、心に染み入ってしまった気がする。こういう詩の読み方ってなかなかできないし、タイミングも良かったのかもしれないが、それ以上に詩の力だったと思える。


        純朴な星
                                     高階杞一

宇宙の片隅に
とても純朴な星がありました
地球のように
そこには
海や川や草木があって
とうぜん 人間みたいな人もいましたが
地球と違って
人は寿命が一日ほどしかありません
朝 陽が出る頃に生まれた人は
翌朝 陽が出る前にはみんな死んでしまいます
久し振りだね
というのは
この星ではほんの数十分のことです
半日も会わないと
もう顔も忘れるほどになってしまいます
ですから
この星の人たちは
大切な人と出会ったら手をつなぎます
手をつないだまま仕事をし
手をつないだまま本を読み
手をつないだまま食事をします
そして
死ぬときにやっと手を放します
「ずっと手をつないでくれてありがとう」
それがこの星でのお別れの言葉です

夜中 外に出て
空を見上げていると
なつかしい声がひびいてきます
暗い空から
「ズット手ヲツナイデクレテアリガトウ」

ずっと手を
つないでいてあげられなかった僕に

        草の実 


散歩に行くと
犬は草の実をいっぱいつけて
帰ってきます
草むらを走り回るので
草の実は
遠い草むらから
我が家に来ます
こんにちは
とも言わず
我が家の庭で暮らします
春になり芽を出して
どんどん大きく育っていきます
庭はいろんな草でいっぱいになります
私と犬は草の中で暮らします
草の中で
ごはんを食べて
排泄をして
いつか
さようなら
とも言わず
私も犬も 順番に
ここから去って行くのです
どこか
遠いところへ
草の実をいっぱいつけて


”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

この詩集を読んだとき、とても哀しくなった。私にとって生きていることの哀しさ…みたいなものを
ひたすら感じてしまう…このような詩集に出会うのは、多分初めて?だろう。遠いところへ”草の実を
いっぱいつけて”去っていく。…ほんとだと思う。幼いころ草の実をいっぱいつけて家路についた
ことがあったっけと思い出す。もうその野原はどこにもない。

ところで浮世の草の実というものもありそう。年月とともにいっぱいそんな実もわが身にくっついて
いるかもしれない。せめてそれらが緑いろしたきれいな実だといいなあと思う。


  

投稿者 ruri : 09:28 | コメント (3)

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2012年05月26日

饗音遊戯6(七月堂刊)

先日久しぶりに明大前の七月堂を訪ね、編集の知念さんと会った。「二兎」3号の依頼のためだった。用件を終えてから、いろんな話をする。大体知念さんが話していて、私は聞いていた気がする。話は主として3,11以後の表現活動や、言葉のことなど。また一昨年他界された木村栄治さんの果敢な生き方のことなど。結構重い内容でもあったが、興味深く刺激的だった。いろんなことを考えさせられたユニークないっときだった。

その際教えられて、購入した「ろうそくの炎がささやく言葉」(菅啓次郎・野崎歓編 勁草書房刊)を読めたこともよかった。それについてはまた紹介したい。

今日は七月堂出版の「饗音遊戯]から展開したSOUND ACID「A small amount of water」について一言。

これは英訳された詩の朗読と演奏のCDで、原作=白鳥信也著『ウォーター、ウォーカー』
作曲・監修=岡島俊治  朗読=Shin(HeavensDust) 英訳=Nozomi 

日本語版の白鳥さんのCD『微水』は以前聞いて、傑作だと思ったが、この英訳のCDはまた別の聴き方ができて、おもしろい!と思った。テキストの英語を見ながら、意味を追いかけることはあきらめて、耳に飛び込んでくる英語の断片を時々とらえながらも、音楽がダイナミックに流れるのに身を任せていると、響いてくる音の世界と、だんだん自分が一体化していくようで、自然体のままの心地よい時間を過ごしていることに気付く。

音楽であるけれど、それだけでなく詩(言葉とイメージ)の生み出した時間そのものだという経験だった。時間のくれるよい贈り物をもらった気がした。この体験は自分の感覚を広げていくだろうという予感がする。ときどき浸りにいきたい個人的な時間になるだろう。個人的な? そう、だれにも説明しないでいい時間かな。

もう一枚川口晴美さんの『GIRL FRIEND』がある。これを開くのはもう少し先にしよう。もう少し今の時間を引き延ばすために?

投稿者 ruri : 14:15 | コメント (0)

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2012年05月08日

脱け殻売り 柴田千晶

神奈川新聞の旅人の歌の欄で好きな詩を見つけた。切り抜いてコピーして友達にまで配ってしまった。柴田千晶さんの作品です。


            脱け殻売り


   虹色の蛇の衣…飴色の空蝉…黒いアタッシュ
   
   ケースに脱け殻を詰めて男は旅をしている。

   どの町にも必ず一人、脱け殻売りを待つ人が

   いて、必ずその一人を男は探し当てた。なぜ

   こんな旅を続けているのか、男は時々わから
 
   なくなったが、 蛇の衣に潜り恍惚としている

   百歳の少女や、空蝉の中で灯る百二十歳の少

   年の姿を見て自問することをやめた。万緑の

   中を行く男の体はしだいに透けてゆき、黒い

   アタッシュケースの底にやがて畳まれてゆく。 

”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 とても不思議で美しく魅力的作品でした。でもそういう感懐よりも、具象としての脱け殻
 や、その内部で灯をともす少年たちの姿態、百歳の少女の見つづける夢の感触が無
 二の詩的魅力です。黒いアタッシュケースの内の闇にはこれからも日々積まれていく
 だろう脱け殻への予感がある。脱け殻と同じ数の夢のこだまがある。

 アタッシュケースの感じさせる重苦しさと、脱け殻の軽くはかないイメージとの違和感。
 ふと賢治の「山男の四月」に出てくる行李を思い出す。
 その行李の中身 の異様さを思い出す。
 またここでは抜け殻でなく、脱け殻と表現されている。 脱けるという表現が脱出を連想
 させるからか。 生きられて、そして消え去っていった時間の行方を思わせるからか…。

 

投稿者 ruri : 10:20 | コメント (0)

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2011年11月02日

ちいさいひとへ 三井葉子

2011、11月2日 
 福島第一原発の2号機で核分裂の可能性というニュース。たえず背中で火がボウボウの
(かちかち山の)タヌキみたいな私です。

 とても好きなル ・シダネルの展覧会が軽井沢のメルシャン美術館で開催中、それもこの
美術館は6日で閉館ということを今頃知り、どうしても見たくて滑り込みで見に行こうかと思って
います。いつか広島美術館で見て幻想的なその雰囲気に魅せられたのです。

              ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””


今日は三井葉子さんの詩集『灯色醱酵』から一篇を載せたいと思います。


                ちいさいひとへ 
                                        三井葉子


眠る子は
眠りのなかで夢を見ている
まだ 彼女自身が夢のようなのに
もう 彼女は夢を見ているのだ


過去が


彼女のなかにたぶん古い古い過去が彼女のなかに住みついているので


かわいそうに
もう 夢を見ている大昔の夢を
馬に乗って駆けていた 路地の溝に靴を落した
待っているのに来ないひとや
跳ねる鯉や
お箸を上手に使えない夢や
ああ
これからすこしずつ
彼女は一生 思い出して行くのだ


かわいらしい
花びらのようなくちびるをぽっとあけて眠っている


どうかそこからよいものが入って行き
よくないものは出て行くように


知恵や熱や
たましいとよばれるようなものはみな、空にあるので
アア アと両手を上げてカーテンを引っ張るように
空から
そんな
これから生きて行くのに要るものを引き落そうとしているのだ
そして響きをよりしろに降りてくるものがまいにち まいにち
ちいさいひとをそだてている

    ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

ちいさいひとへの静かな深い愛が、柔らかな感性で、こんなふうに描かれて
いるのに感じ入ります。夢を見るこども。古い古い過去が住みついている
こども。永遠の中からぽっかりと浮かんできた夢の泡のようなこども。
詩的想像力と感性が時間の壁を繊毛のように撫で、くぐり抜けてゆく感触。
詩表現を支えるゆるやかな呼吸。
眠り姫の呪いを解き、百年目の幸いを与えるためにやってきた,あの仙女
のまなざしを思い出します。

投稿者 ruri : 10:32 | コメント (0)

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2011年10月29日

ことば が 佐伯多美子

詩誌「すぴんくす」から佐伯多美子さんの詩を一篇載せます。

            ことば が

ことばが ずれる

すこしずつ ずれていくと

ことば が


裏返ったり

宙づりに なる

おもいとは

別れて 暴走していく


暴走していく ことばを

ただ 傍観している


むかし

いいわけに いいわけに いいわけを

して

なお 混乱して

いま は

天井から宙吊りになっている ことばを


部屋のまんなかで

へたり

座りこんで 見上げている


”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

わたしにとって3.11以後の言葉との関係をこんなふうに言ってくれたんだ
と最初に読んだときに思ってしまった。くっきりと筆太に。
もう一篇。これも佐伯さんが書いた作品と思うと、うれしい。もちろん誰が書いても
うん、うんと思うけれど。


          あのね


あのね

きょう ひとつ いいことあった


きもち やわらかかったし

あたま パンクしなかったし


ねこが フードいっぱい食べたし

目が ふっと通じあえたし


あじさいの大きな花が涼しげにゆれていたし

テレビドラマ見ていて ぽろっとなみだこぼれたし


ゴミ出しもできたし

ねこと「り」の字になってひるねもしたし


玉子なしのチャーハンもおいしかったし

きな粉ミルクも


こころの中だけど「ごめんね」っていえたし


ひとつ

なのに よくばりだね

””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

こんな一日があるといいな、と思いました。私のなかに、ないがしろにされた、
たくさんの”いちにち”がこっそり膝を抱えているようで。

投稿者 ruri : 10:14 | コメント (1)

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2011年10月15日

雪物語

田中郁子さんの新詩集『雪物語』を読む。田中郁子さんの詩を読むと、あらためて
人とその「場所」の出会いの運命的な意味を考える。人は場所に選ばれることで
自分の生を創造していく存在かもしれない。

とてもいい詩を読んでいるとき、私もきっと窓から星を撒く人を見ているのかも知れ
ない。

          孤島               
                              田中郁子

人間が老いると 窓になってしまうということは まわ

りの人が気づかないだけで ほんとうはよくあることな

のだ わたしの場合 数日窓からあおいものを見ていた

時のこと 胡瓜の葉が 一面に地をおおい 蔓の先が巻

きつくものを求めて空をつかもうとしている畑を 見て

過ごすことに始まった

 ーあれはどんなにしても コリコリと歯ごたえのある

  実をつけるだろう 葉がくれに黄の花さえちらつか

  せているではないかー

そのうちに はげしく茂ってくる葉と蔓に かこまれ

て 自分がどこにいるのか わからなくなってくる


ある夜 星を撒く男を雲間に見る その男の手から た

くさんの星がばら撒かれるのを 瞬きもせず見たのだ

地上には落ちなかったが そのうつくしい輝きの下でカ

タバミが葉と葉を閉じて うっとり眠っているのを見て

から 誘われたのかふかい眠りに落ち そのままになっ

てしまう 二度と窓から入ることも出ることもなかっ

た 窓になってしまったのだ

遠い山里の古い家では 無数のわたしが無数の老婆とな

っていまでも窓に映っている 結局 わたしが窓から見

たものは 胡瓜の茂みとカタバミだったと思う その畑

の大きさが 孤島そのものだったと思う わたしはその

孤島を今でも全世界のように見つづけている


投稿者 ruri : 13:33 | コメント (0)

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2011年09月02日

無限軌道 飯島正治

『薇』4号を送っていただいた。飯島正治氏の追悼号だった。その中から「無限軌道」を載せたい。

           無限軌道                                                                                 

黄ばんだ畳の野原を息子の鉄道模型の

ちいさな列車が駆けている

畳に耳をつけ眼を閉じると

レールを刻む車輪の音が大きくなる


縁の川にかかる積み木の橋を渡って

列車は過去の坂を下ってゆく

すると汽笛が聞こえ

ぶどう色の客車を引いた蒸気機関車が

扇状地のりんご畑の間を

ゆっくり上がってくるのだ


枝々のりんご袋を一斉にゆすって

列車が通り過ぎる

煙のなか車窓の一つひとつに

顔が浮かんでいる

おぼろげな父親の顔や軍帽の叔父

おかっぱの少女も見える

帰ってこなかった者たちだ


彼らを乗せたまま

列車は無限軌道を走り続けている

眼をあけると

ヘッドライトをまたたかせ

あえぎながら未来の橋を渡ろうとしている


””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

はるばるとした永劫の時間と今のこの瞬間が、一つになって見えてくる。
こんなにもありありと見える遠景。遠ざかる列車の車輪の音と、汽笛まで聞こえる。
無限につづく人々の記憶のつながり。ふいに懐かしさがよみがえる。
たとえ会ったことのない人々も私の記憶の中にいるのだと思う。

投稿者 ruri : 12:55 | コメント (1)

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2011年08月22日

三崎口行き(北島理恵子)

北島理恵子詩集『三崎口行き』から紹介したいと思います。
巻頭の詩と、もう一篇です。

       遠景
                                       
                                     北島理恵子

     わたしたちは

     生まれる前の、海の水面のきらめきの話をする

     幼い頃布団の中で見た、怖い夢の話をする

     いまここにある

     かなしみは話さない


     廃墟

この街は とうに

消えてなくなっているはずだった
   


そうした ある日

地下鉄を降り

Aの出口を上がって

砂塵が舞う

乾燥した通りに目をこらすと

あの店の二階の

窓際の席が見えたのだった


狭い 階段だった所をのぼり

いつも座っていた椅子に腰掛ける


「火鍋はじめました」

と書かれた紙が

以前と同じ位置に貼られてあった

触るとそれは

ぼろぼろ 崩れ

目の中に降ってきて

溶けて ようやく終わった


当時 すこし派手めだった飾りが

かすかに赤い

ハエ取り紙のようになって揺れている


ここにはもう

中国なまりのカタコトの店員はいない


何時まで待っても

やあ と言って

向かいに座る人もいない


わたしという

客の形をしたものが いるのみである


”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

ひとりずつが、生きている時間のもつ、内面的な多層性。私たちは、詩という形で、
あるいは夢という形で、または追憶という形で、病という形で、そんな時間の一端
に触れることができる。その時間への感触を与えてくれるような、繊細な想像力を
感じさせる詩集だ。ほかにもいろいろあったが、短めのしかここに入れられず残念。
出版は「Junction Harvest」。これは.第一詩集とのことです。

投稿者 ruri : 10:05 | コメント (3)

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2011年08月07日

蚊おとこのはなし

夕顔が咲きはじめた。まだ一輪、二輪ずつだけど。夕顔も(西)の領域に属する花だなあと思う。なぜか西には気持ちが向かう。詩集『ユニコーンの夜に』で、西のうわさ、という作品を二篇書いていて、これは西に棲む女家主を書いたものだった。この「西のうわさ」シリーズにはまだ続きがある。ここに載せるのは2005年に『幇』8号に発表したもの。

        蚊おとこのはなし

                                  水野るり子
 
夏おそく
蚊おとこたちが
西の方から訪ねてくる
ひとり ふたりと
わらじを脱いで上がりこみ
縞の烏帽子も脱ぎ捨てて
ねむたいわたしの耳のそばで
わやわやと
女家主のうわさをはじめる
(ああ 耳がかゆい)


蚊おとこたち…
西の夕やみにすむ
女家主の一族郎党か
(彼らは本来饒舌なのだ)
その豆粒ほどの脳髄を
芯までトウガラシ色に染め
ほんのひと夏の
はかない身の丈で
せいいっぱい勝負するかれら
ちっちゃな血のしずくから
生まれてきた連中だ


「女家主はカワウソだ
川で星の数ほど魚を食う」
「いや女家主は巨人なのだ
異形のものを生み拡げる」
「いや女家主は羊歯の一味だ
やくたいもない菌糸をのばす」

(だがいつだれがそういった?)
(だがいつどこでそれを見た?)


蚊おとこたちは口々に
女あるじのうわさをするが
その正体をまるごと見たものはいない


焦げくさい西の空から
巨大なヒキガエルにも似た女家主の
おおいびきがとどろいてくると
蚊おとこたちの宴は 雲散霧消…


雷雨が夢のなかまでびしょぬれにして
東の方へ駆け抜けていく
ねむたいわたしの耳に
蚊おとこたちの薄いわらじの跡だけつけて

投稿者 ruri : 15:20 | コメント (3)

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2011年07月17日

「牛」 吉井 淑

 詩集『ユニコーンの夜に』を巡って、詩友の方々からさまざまな言葉の贈り物をいただく機会がここ二度ほど、連続してあって、爽やかな緊張感と喜びの日々だった。もちろん今後に向けていろんな形での刺激をもいただいた。これはめったにないことでもあるので、今週は少し孤独にその余韻を味わいながら、同時にこの夏の暑さにも驚いていた。
 
今日は詩を一つ。

                 牛      吉井 淑        


         曲がりかどで牛に出会う

         板塀から染み出たように立っている

           かわたれどきの空き地でも

         ひっそりと

         黒牛のかたちに闇が濃くなっている


         川のほとりに住んでいたころ

         土手の斜面を上がると牛がいて

         空いっぱいに腹が広がっていた

         たくさんの虻が飛び交って

         ぬうっと振り向いた瞳はよく光るのに

         なにも見ていないのだった


     

         草を食むためにだけ一歩二歩進む

         耕さない牛が

         どこをどう歩いてきたのか

         ずっと私の側にいる

         虻を払うように

         ときどき尻尾で叩きながら

         


         街頭の下に大きな影を倒している

         毛深い腹に潜り込むと

         みわたすかぎりの星空

         土手の空

         そこから森への小道

         はぐれていく
         
         ぴしりぴしり

         尻尾の音   
 

   ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
このところ原発問題とからんで牛または牛肉問題で大騒ぎになっている。騒いでいるのは我々人間、そして牛たちは寡黙である。もくもくと藁をはむだけの彼らのすがた。(板塀から染み出たように立っている…)(ひっそりと黒牛のかたちに闇が濃くなって)くる、その影は隠喩に満ちている。ここにあらわれる牛は、存在自体の影のようだ。それはみわたすかぎりの星空や、森への小道につながっているのだから。
この詩は吉井 淑さんの詩集『三丁目三番地』から引用させていただいた。好きな詩なので、もし以前にも取り上げさせていただいていたらすみません。

投稿者 ruri : 15:56 | コメント (0)

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2011年06月23日

続き(2)

最後に受賞の日のパンフレットに紹介された自分の作品も載せます。『ユニコーンの夜に』からです。
   
          なぜ

      小さな言葉のはしきれが
      どこかに
      こぼれ落ちているが
      その場所が見あたらない
      夜明け前の暗さのなか
      出来事だけが   
      ゆめのなかでのように
      通り過ぎる
       …さっき傘をさして
       黄色い花の森をさまよっていた
       あのうしろすがたはだれ…
      読み残したものがたりが
      どこかでまだ続いているらしい
      枕もとで
      羊歯色の表紙が
      夜ごとめくられていくのも
      そのせいだ
      電車の棚に置き忘れられた
      赤い傘の上に
      雨が降りしきるのも
      そのせいだ
       …いつだったか
       あの傘を
       太陽のように
       くるくる回していたのはだれ…
      もうひらかれることのない
      傘の骨が
      網棚できしんでいる


      遠ざかるプラットホームで
      くろい犬が鼻をあげ
      どこまでも…わたしを
      追ってくる日々 


”””””””””””””””””””””””””””””””””

以上で小野市詩歌文学賞受賞報告を終えます。

詩とは何か、と考えてもなかなか答えは出てくれません。受賞の際にいただいた辻井喬氏のこの詩集への講評に「人生への開き直り」ということばがあって、その意味を今後への一つの問いとして受け止めています。

 そんなことを想いながら昨日横浜美術館で、長谷川潔展を見ました。現実の土壌に根を下ろしながら、完璧な異世界にそれを移植し、深い宇宙性をもつ作品へとそれを昇華した長谷川潔の仕事。特に風に種子を飛ばす雑草たちの毅然とした美しさがいつまでも消えません。
  
””””””””””””””””””””””””””””””””””””

       すべての芸術家は、多かれ少なかれ「神秘」を表そうとするものだ。        ただ、ありきたりの手段によってではなくそれを表そうとする。現
       代の画家の中には、対象をぼんやりと眺め、それをデフォルメさせ
       るにとどまる人が多い。しかし私は、一木一草をできるだけこまか
       く観察し、その感官を測り、その内部に投入する手段をもとめる。
       できるだけ厳しく描いて一木一草の「神」を表したいがゆえに。
       現代は,神性の観念よりはいって絵にいたる。私は,物よりはいっ
       てその神にいたる。

        東洋の思想と西洋の技法の結晶   長谷川 潔より           

                

投稿者 ruri : 12:05 | コメント (1)

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2011年04月16日

名前のない馬 岩木誠一郎

名前のない馬                 
                           岩木誠一郎


好きな動物は何か という質問に

馬 と答えたときから

すらりと四肢の伸びた生き物が

わたしのなかに棲みついている


電車に乗っているときも

街を歩いているときも

風にたてがみをなびかせながら

遠い物音に耳をすませている


夜が来て

だれかの絵のなかで見た風景が

濃い影をまとって現れると

天に向かっていななくこともある


星空のどこかに

帰る場所があるのだろうか

愁いをおびた眼の奥には

夕陽が燃え残っているのだが


カーテンを開けると

蹄のかたちをした雲がひとつ

ぽっかり浮かんでいることがある


””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

昨日、根岸森林公園の隣の馬の博物館に立ち寄った。白い馬や栗毛の馬が4頭、馬場を
駆けていた。馬場の隣の厩舎に繋がれているのが一頭だけいて、鼻筋が白く、左の後足の先だけが白い。写真を撮りたくなって声をかけたら、大きな目で、じっと私を見てくれた。岩木さんの詩の通り、やっぱり愁いをおびて、澄んだ眼の色だった。花吹雪のなか、馬のその眼を思い浮かべながら帰ってきた。

投稿者 ruri : 09:43 | コメント (0)

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2011年04月15日

夜のバス 岩木誠一郎

岩木誠一郎さんから新しい詩集が届いた。岩木さんの詩のなかに流れている時間の質が好きで、またそこへ戻っては、自分の日常を味わいなおすように何回も読み返してしまう。そしてそのたびにかけがえのない時間の一回性に気がつく。


           

    夜のバス      
                          岩木誠一郎

深夜の台所で水を飲みながら

通り過ぎてしまった土地の名ばかり

つぎつぎ思い出してしまうのは

喉の奥に流れこむ冷たさで

消えてゆく夢の微熱まで

もう一度帰ろうとしているからなのか

こわれやすいものたちを

胸のあたりにかかえて

卵のように眠る準備は

すでにはじまっているのだが

冷蔵庫を開けたとき

やわらかな光に包まれたことも

水道管をつたって

だれかの話し声が聞こえたことも

語られることのない記憶として

刻まれる場所に

ひっそりと一台のバスが停まり

乗るひとも降りるひともないまま

窓という窓を濡らしている


投稿者 ruri : 14:24 | コメント (0)

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2011年04月02日

冷凍魚 水野るり子

    冷凍魚

魚は一匹ずつで悲しんでいる


早春の塩の浜辺にひきあげられ

塔のように倒される海の魚


しなやかなその喉のところまで

行き場のない海があふれてきて

やがてそのまま凍りついていく長い時間


かつて魚を許してくれた

あの水の限りないやさしさが

いまは不思議な残酷さとなって

魚の全身を

容赦なくしめつけてくる


そうして

魚はあえぎながら

少しずつ

内側から啞になっていく

 

投稿者 ruri : 10:31 | コメント (0)

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2011年04月01日

象その他   水野るり子

ずいぶん長い間お休みしていました。その間いろいろなことが起こり、落ち着きなく過ごしてきました。いま自分のために、以前書いた私の内の原イメージみたいな作品をいくつか写してみたくなりました。それは今というこの時代の曲がり角を感じ、でも何もできない自分の気持ちを反すうするために…かもしれません。


           


一日中

雪は降りやまず

時計は故障していた

世界は沈黙し

人類がたどりつく以前の

ひとつの星のままだった

見えない空の底では

かすかに鐘の音が鳴り響いていて


    
      ※


その夜

雪明かりの窓からわたしは見た

巨人がひとり

暗い坂道を下りていくのを

風が中空に

その髪を吹きあげ

肩にのせた深い壺のなかへ

なおも雪は降りつづけていた

                  詩集『クジラの耳かき』より

         象

その象は三本足である

たるんだしわの重みを引き上げ

ゴミ捨て場の夕闇のなかにかくれている

腐敗することのない不消化物の山が

焦げ臭いにおいを立て

重い廃油となって空を侵している

ブルドーザーもひびかず

火も種子ももえないこの場所にむかって

どこからか象は裏切られてきたのだ


あまりに場違いなこの成り行きは

象を途方に暮れさせる

夜のゴミ捨て場をきしらせて餌をあさり

ドラム缶の足音を

町の眠りの裏側にとどろかせる

うっかり追い抜いて来てしまった

自分のもう一本の足に毒づいてもみる

草食性の身の上をかくし 人目をさけて

町の上空を飛ぶ 排泄物に汚れた鳥を

鼻高々としめ上げてもみる

だが奇形の象のかなしさは

日ごとに錆びついていく町の空に

錨のように重くひっかかったきりだ


スクラップ広場に漂着する

町という町の悪夢は

ついに回収されることができない

その黄色いガスの底をさまよう

一匹の象の姿を見たものはいないか

もう人間の領分ではない

荒涼としたあの象の場所を見たものはいないか

                         詩集『動物図鑑』より


            

投稿者 ruri : 10:20 | コメント (0)

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2010年12月22日

原利代子詩集 「ラッキーガール」より

        カステラ                                            
                           原利代子

ポルトガルへ一緒に行ってくれないかってその人は言った
なぜポルトガルなのって聞いたら
カステラのふる里だからって言うの
お酒のみのくせにカステラなんてと言うと
君だってカステラが好きなんだろって
でもあたしはお酒ばかり飲んでる人とは
どこへも行かないわって言ったら
「そうか」って笑ってた

あたしはカステラが大好きだから
今度生まれ変わったら丸山の遊女になるの
出島でカピタンに愛されてエキゾチックな夜を過ごすわ
ギヤマンの盃に赤いお酒を注いで飲むの
ナイフとフォークでお肉も食べるわ
大好きなカステラもどっさりね
そして食後にはコッヒーを飲むの
「それもいいね」ってその人は笑っていた
いつもそう言うのよ

元気なうちに一緒に行ってあげればよかったのかしら ポルトガル?
病院で上を向いたまま寝ているその人を見てそう思ったの
きれいな白髪が光っていて
あたしは思わず手を差し伸べ 撫でてあげた
気持ちよさそうに目を瞑ったままその人は言った
「いつかポルトガルに行ったら ロカ岬の石を拾ってきておくれ」
やっぱりそこに行きたかったんだ
ーここに地尽き 海始まるー
と カモンエスのうたったロカ岬に立ちたかったんだ
カステラなんて言って あたしの気を引いたりしてー
それより早く元気になって一緒に行きましょうって言ったら
「それがいいね」
って またいつものように笑った


あなたの骨が山のお墓に入るとき
約束どおり お骨の一番上にロカ岬の白い石を置いてあげた
あなたの白髪のように光っていたわ
ポルトガルへ一緒に行ってくれないかって
声が聞こえたような気がして
今度はあたしが
「それはすてきね」って
あなたのように ほんのり笑いながら言ったのよ


””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 原利代子さんの『ラッキーガール』は最近の詩集のなかでもとりわけユニークですてきな詩集だった。読み返すたびに、それぞれの詩から、異なるさまざまの活力をもらえる。作品ではあるけれど、どの連にも、どの行にも、詩人のなまの声が、リズミカルな呼吸で、展開されていて、詩集を開くことは、その人との対での会話みたいな気がする。
 好きな詩がいろいろあるが「カステラ」は、このような追悼詩が書けたらいいなあと思う作品だ。人とのかかわりの底にある深さや痛みが、野暮でなく、斜めに、しみじみと描かれていて、その表現の切り取り方に感心するばかりだ。
 たとえ追悼の場ではなくても、このような表現のできる人は、人生のあらゆるシーンにおいて、他者と自らの距離のバランスに敏感で、人も傷つけたくないが、自分に対してもかっこよく生きざるを得ないかもしれないとふと思う。

投稿者 ruri : 11:11 | コメント (0)

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2010年11月27日

夏の夜におとうとが  伊藤啓子

伊藤啓子さんから送られてきた詩集『夜の甘み』(港の人)からです。

       夏の夜におとうとが    
                           伊藤啓子

    薄暗い古道具屋

    光の中 埃がちいさく舞っていた
 
    わたしはくるりと振り向き

    奥に座っているひとに言った

    こんどは おとうとをつれてきていいですか?

    奥のひとが

    なんと答えたのか知らない

    そこで目ざめてしまったから

    

    着ていた白いセーラーの夏服は

    モノクロにかすんでいた

    けれど 夢の中の感情だけは色をおびて

    くっきり浮かびあがる

    そこは秘密めいた

    後ろめたい場所らしかった

    せめて おとうとと一緒なら

    すこしは罪が軽くなると

    夢の中のわたしは

    ずるくおもっていた


    夢の反すうは浅い眠りを狂わせる

    寝返りをうちながら

    せつなく おもうのは

    奥にいたひとではなく

    夢でも顔を見せぬ おとうと

    あの店の奥に ゆるゆる

    入りかける不良少女のあねの腕を

    心細げに くいと引っ張る

    細くあおじろい首をした おとうと

    
    死んだ母に

    一度 問うてみるべきだった

    寝苦しい夏の夜

    わたしにぴたりと寄り添ってくれる

    おとうとを はらんだことはなかったかと


    ””””””””””””””””””””””””””””””””””

目ざめてみると、夢の中では、はっきり認識していた誰かのことが、はたして現実の誰だったのかどうしても思い出せなくて、一日も二日も、それ以上も、昼の時間のなかに歯がゆく立ち止まっていることがある。自分の心の中に影を落としている何かが、
だれかの形を借りて夢の中に登場するのだろうか。夢の中でさえ、心の中の影は仮面をかぶっているらしい。そうではなくて、私の中のまだ形にならない何かが、言葉となって表現されるのをもどかしく待っている姿なのかもしれない。

細くあおじろい首をした おとうととは、いったい誰なのだろう。私はよく夢の中で
部屋の隅や戸棚の奥に、長い間置き忘れられた鳥かごや、金魚鉢などを見出すことがある。そのなかには、忘れられた一羽の小鳥、むかし飼っていた小魚たちが細々と生きつないでいて、私の心を凍りつかせるのだが。

 

      

投稿者 ruri : 15:27 | コメント (0)

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2010年09月08日

Spaceより 「石段」 坂多瑩子

[SPACE」93号で坂多瑩子さんの詩を読んだ。
坂多さんの詩は、どこか独り言のようだ。それは意識の下にあるあちこちの層から、記憶の断片が勝手に顔をのぞかせ、ふたたびどこかに消えていってしまうようでもあり、それは読み手の受け止め方によって、それぞれの人のもう一つのつぶやきや、忘れられたものがりを引きだす呼び水となったりする…そんな感じがする。


        石段                坂多瑩子

   ひとつふたつ
   一緒にかぞえてという
   女医さんの声を聞きながら


   石段をのぼった
   体温はすこし下がっているようだった


   石段をのぼりきったところには
   タラもどきの木が大きく立っている
   夏らしく
   茂った木は勢いがあり
   あかるい空に
   むこうのちいさな家に
   それから
   自分を描きこむまえに
   あたしは何も分からなくなった


   気がつくと
   へやの暗がりに
   ベッド 空っぽだった


   ネコがいなくなったネコはあれから一度も帰ってこない
   一度もついてきたことのなかった石段を
   ぽんぽん跳ぶように
   あたしを追い越していった


   あたしはネコのように
   ないた ないてみたかったベッドの上で


   むかし
   ひとつふたつ
   女医さんと一緒に数をかぞえた


    ”””””””””””””””””””””””””””

 石段や階段をのぼる、おりるということは、平坦な道をあるくのと違い、次元の移動というもうひとつの要素があり、ある意味で負荷〈楽しいにせよ、苦しいにせよ)を感じさせる特殊なイメージをもつ。この詩からは病気か何かで熱っぽい夢にうなされている状況をおもいうかべた。麻酔にかかるときの状態?かもといったヒトもいた。

 だが、〈石段)(数える)(夢のなかの状況のような画)〈つきまとうネコのわずらわしさ)などそれぞれの断片が、どこか深い所で読み手に見え隠れする、ある物語の脈絡を感じさせ、気になる作品だった。それも私が石段や階段のイメージになぜかこだわるたちだからかもしれないが。
    

      

投稿者 ruri : 09:55 | コメント (3)

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2010年09月02日

「キャベツのくに」から

またご無沙汰していました。
今日は鈴木正枝さんの「キャベツのくに」という詩集のなかから二扁の作品を挙げさせていただきます。

読むひとによっても、読む状況によっても、いろんな風に読めるこわい詩です。


           月の丘         鈴木正枝                    

          夜が来て
          熱が引くと
          からっぽの頭の中に
          月がのぼります


          無理やり束ねておいた神経が
          さわさわと
          枝葉を拡げ
          森のように騒ぎ出す
          丘の上


          真昼間埋めたばかりの
          寂しい私のにくしみが
          見つけられそうになって
          急いで目を閉じます
          月あかりを消して
          もう一度
          深く
          深く
          埋めなおさなければなりません


          その分だけ
          重くなった身をおこし
          引きずって
          床にころがっている
          もうひとりの人の
          瞼を開いて
          中を覗き込みます
          あなたも何か埋めましたね


          丘の上は
          何年もの光のあくで
          まっ蒼
          見るばかりで
          誰にも見られない私の月は


          決してやせることなく
          まあるくまあるく
          破滅にむかって進みます
          あなた
          完璧な満月が
          のぼりましたよ


   
         ”””””””””””””””””””””

破滅に向かってまあるくなっていく月…
丘の上は何年分かの光のあくで蒼く染められている…
ほんとに この地上に埋められたにくしみと寂しさの総量を、天上の月が
照らし出したら、どういうことになるでしょうか。


もう一つ詩を挙げます。


              松は           鈴木正枝


           松は
           数ヶ月の潜伏期間を
           ひとりで耐えた
           数百匹の虫たちは
           内へ内へと潜入していったが
           松は
           すべてを明け渡しながら
           ついに松であることをやめなかった
           予定されていた
           その時が来たとき
           耐えてきた緑を
           ふつりと断ち切り
           断ち切った痛みに
           松は
           初めて小さく叫びながら
           そのままの形で物になっていった
           物になったまま
           物として
           松は
           松であり続けた
           きっかりと潔く
           夕陽のような赤を
           野に流して
           松は


          


            


                

             


           

投稿者 ruri : 13:28 | コメント (2)

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2010年07月02日

林檎ランプ 尾崎まこと

今日は尾崎まことさんの新しく出された大人のための童話集『千年夢見る木』から
短い詩を一篇入れさせていただきます。
これは文庫本くらいの大きさのハードカヴァーの本で、表紙の色が鮮やかな黄色、
左子真由美さんの挿絵もきれいです。”9つの夢の贈り物”と表紙にあります。

最初の頁をめくると次のような文が目に入ります。
 
  「この宇宙はほんとうは美しい図書館です。なのに大きすぎて
   その入口が分からないと、もどかしく思ったことはありませんか。
   あなたは、不思議で驚きに満ちた、大切なその一冊に違いありません。
   この小さくて黄色い本がその扉になってくれたらうれしいです。」
                                (著者)

             林檎ランプ

                             尾崎まこと

        林檎山の林檎の木
        風が吹くと
        まだ青くて小さいけれど
        鈴なりの子どもたちが
        かりん こりん かりん
        いい香りで鳴ります


        昼間は見えないけれど
        一つ一つのまんなかには
        小さな炎が
        灯っているのです
        夜になると皮をすかして
        ほんのり明るむので
        林檎山全体まるで
        輝く童話の森のようです


        林檎ランプは
        夕焼けの空と同じように
        だんだん水色からピンクへ
        ピンクから茜色に偏光し
        私たちのために美しく
        美味しく熟していくのです


        今年の秋
        ナイフでさくっと割っていただく時
        林檎ランプ
        つまりそのまんなか
        灯し続けた炎のあとを
        たしかめてこらんなさい


    ””””””””””””””””””””””””””””

夜になると、皮を透かして、中心にある林檎の芯が炎のように内側から明るんで
来るので、林檎山全体が闇の中でほんのりと輝くという描写、林檎を食べるとき
燃え尽きた炎の痕をたしかめてごらん…というところ、すばらしいイメージで林檎
一個が自分の中でよみがえってきて、この柔らかな感性に共鳴してしまいます。

それからこの小さな一冊の童話集が宇宙の図書館の入り口である…という哲学的
イメージに触れると、ああ、そうか…この自分もその蔵書の一冊だったのだと
気がついて、自分という存在のかけがえのなさを感じさせられるのは、不思議な
ことばの力です。

 

   

 
        
 

投稿者 ruri : 16:25 | コメント (2)

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2010年06月09日

またなの

久しぶりで更新します。今年前半も間もなく過ぎようとしています。2月から3月にかけて足の手術で入院するなどして、ずいぶんペースが遅れました。今日は中井ひさ子さんの「ブランコのり9号」からの作品を載せたいと思います。

           またなの         中井ひさ子

       
       こんな日は
       考える人になって と
       公園のベンチに座っていたら


       昨日言ってしまった
       ひと言が
       からだのすき間から
       聞こえてきて
       ちりちり 痛いよ

      
       またなの と

       
       ラクダが
       けむたげな目をして
       通り過ぎていく

       
       冷たいね

       
       春だもの
       微かに揺れている
       桜も 木蓮も 菫も 大根の花も
       とり集めて見よう


       見渡せば
       風の
       大仰な身振り手振りで
       もっと もっと
       思い出してしまったよ


       ぼくの
       こぶの中にあるものなあに
       帰ってきた
       ラクダが聞いた 


    ””””””””””””””””””””””””””

少ない語彙なのに、というかそのために、呼吸のリズムがびんびん伝わり、現実味を感じてしまう。とくにラクダ(中井さんのなかの一因子?)が生きている。一人称が(ぼく)で登場するのが印象的。(俺)とか(私)に入れ替えて見ると、空気が一変するのでおもしろかった。彼女はここですっと(ぼく)にしたのかなあ。今度きいてみよう。        
           

      

投稿者 ruri : 11:23 | コメント (4)

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2009年12月22日

草地の時間(村野美優詩集)

               寝床のふね                  
                                        村野美優

       このあいだまで
       赤土色のふとん袋を
       ねぐらにしていたうさぎたちが
      
    
       いつのまにかここに移動してきて
       しずかな夜の海を
       一緒に渡るようになった

     
       ひたひた
       へやの扉をあけると
       畳まれたふとんの上で
       しずかに船出を待っている


       もやい綱を解くように
       ふとんをひろげて横になる
       わたしの背骨は竜骨になる
       甲板にはうさぎが二匹
       へさきには時の船頭が乗る


       ひたひた
       へやの扉を越えて
       いきものたちの寝息のなかを
       今日も寝床のふねが行く


       あたらしい草たちが
       聞き耳を立て
       伸びていく


村野さんがうさぎ二匹と暮らしていることは、聞いていたので、彼女の日々の暮らしの一場面が
目に浮かんでくる。もっともうさぎと暮らしていたからって、こんな広々とした?たのしい詩が生まれる
わけじゃないですよね。この詩集全体から、村野さんの原感覚とも言うべき、この世界への感受の仕
方が伝わってきます。身辺のどんな存在とも(植物や動物たち、そして空間や時間とも)溶け合い、
一緒になれる共生感覚が、自然に溢れ出していて、詩人てこういう人のことをいうのでは…と、頁を
ひらくたび思ってしまう、そんな詩集でした。まさに草地の時間を感じました。もう一つ載せます。

              

                 藍色のうさぎ  

           白いうさぎと

           茶色いうさぎが

           やってきた晩

           わたしはうさぎの夢を見た


          
           夢のなかにはうさぎが三匹いた

           白いうさぎと

           茶色いうさぎと

           藍色のうさぎ


          
          

           藍色のうさぎは

           わたしの胸の穴の深みに

           長いこと棲んでいたので

           すっかりかたちをなくしていたが

           

           白いうさぎのあたまを撫でると

           藍色のうさぎもよろこんで目を細めた

           茶色いうさぎが葉っぱを食べると

           藍色のうさぎの腹も満たされた


           二匹のうさぎが寄り添って眠ると

           藍色のうさぎもうっとりとなった


           藍色のうさぎは

           ときどき胸の穴から抜けだし

           どこかへ行こうとした

           だが自分がどこへ行きたいのか

           わからないようだった


           ただ夢のなかで藍色に広がり

           ぼんやりと漂うだけだった


この詩は私の一番好きな作品でした。このような具体的なやさしい表現で、人が生きていることの
あてどなさや、存在感、そして愛の感情やその意味を表現されたことに打たれます。  

             


           
                    

            

           
 

投稿者 ruri : 11:20 | コメント (0)

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2009年09月22日

サーラの木があった

以倉紘平さんの詩集『フィリップ・マーロウの拳銃』のなかから、好きな詩をひとつ載せさせていただきたい。

            サーラの木があった

駅に着くと
サーラの木があった
思い出せるのはただそれだけである


そこからいかなる言葉も紡がれようがなかった
こころみるとすべて作りごとのような気がしてくるのである


〈駅〉とは何だろうそれはこの世のことではあるまいか
〈着く〉とは何だろうそれは遠い所から
この世に生まれたことを意味しているのではあるまいか
サーラには匂いと色があったはずだ


甘い花のかおり
風がにおいを運んできたのだろう
(風はひろびろとした野の方に過ぎさったのか
びっしりとつまった街の家並みのほうへ吹きすぎたのか)
そう書くともう汚れてしまう感じなのだ
たくさんの小さな花
朝日に輝いていたのか夕映えにきらめいていたのか
(乗客の中に行商のおばさんが
少女が乗っていたのかどうか
だいいち駅名や時刻表があったのかどうか)
そんなことを考えるともう嘘のような気がしてくるのである


だから
なにか豊かなものがあったとしかいいようがない
白い花の色とかおり
すみやかに時が流れ
あっという間だった
この世のことはもうそれ以外に
ぼくはなにも思い出せないのである

   ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 この詩集は装丁にも粋な題名にも、心ひかれた。 サーラの木とは、あの沙羅双樹の沙羅の木のこと。お釈迦さまが亡くなられたとき、いっせいに花開き、降り注ぎ、その死を悲しんだと言われる木である。朝開き夕べにはしぼむという、その一日花は夏椿とも呼ばれてる白い美しい花である。

 私は、以倉さんの詩にはいつも深いところでの心の共振のようなものを覚えている。「人が生きている…その根源にある大きな感情に触れることができ、さらにそのかなたへと思いを運んでくれるような…」と、私は手紙に書いた気がする。そして、そのかなたとは、ふしぎに懐かしい場所なのだ。

 彼のこの前の詩集『プシュバ・ブリシュティ』のなかにもサーラの木のことが出てくる。
その”〈サーラ〉という語”という詩のなかから一部を引用したい。

 (きれはししか思い出せない夢がある。気分情緒しか残っ
 ていない夢もある。たしかに見た夢でありながら、わたしの
 意識にひとたびものぼることなく忘れられた夢は、誰に
 所属しているのだろう。そのときの夢はどこを旅してい
 るのだろう。ことばの及ばぬ内面世界のはるかな時空だ
 ろうか。それは日常の世界を越えて旅するもう一人の私
 である。意識の上に突如としてのぼってくることばは、
 未知の領土を 旅するもう一人の私からの通信である。/……
 宇宙樹サーラは、 その枝葉のやみに青い地球を抱えている。/
 人間はサーラの花散る宇宙 をよぎる旅人である)

  
              


                   
 
             

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2009年08月23日

影の鳥(Shadow Birds)

    影の鳥
                          水野るり子

鳥は死んでから 
だんだんやせていくのです


  町には窓がたくさんあって
  夜になるとどの窓のおくにも
  橙色の月がのぼります


  でもお皿の上の暗がりには
  やせた鳥たちが何羽もかくれています


  鳥たちは
  お皿の上にほそい片足を置いて
  大きな影法師になって
  月のない空へ舞い上っていくのです


死んだ鳥たちは
雨の降りしきる空で
びっしょりぬれた卵を
いくつもいくつも生むのです


そうして冷たい片足を伸ばして
沈んでいく月をのぞくと
深いところには
人間がいて
窓のなかで
ちぢんださびしい木を切っています

         Shadow Birds
        (Translated by Edwin A.Cranston)

Birds after dying

gradually grow thin


   In the town there are many windous

Deep in every one at night

an orange moon rises

But in the dark on the platter

a flock of thin birds hids


  Each bird stands

 with one thin leg on the platter

  becomes a large, black shadow

 leaps toward a moonless sky


The dead birds

in the rain-gusting sky

lay dripping-wet eggs

clutch after clutch


  And each stretching out one cold leg

  they peer at the sinking moon

  In a deep place

  are humans

 inside windows

  cutting shrunken, lonely trees

""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""

「影の鳥」 は初期の作品です。一枚の画を描くような気持ちで自分のなかの
    イメージを詩にしました。詩集『ヘンゼルとグレーテルの島』 に入れました。

  

投稿者 ruri : 10:58 | コメント (0)

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2009年08月16日

鳥(Bird)

        鳥
                                水野るり子

       空のまんなかで
       
       凍死するのがいる

      
       雹にうたれて

       胴体だけで

       墜ちてくるのがいる


       ふいに

       空で溺れかける

       瞬間の鳥が

       恐怖の足でつかむ

       はじめての空


       その空の深度へ

       首はすでに

       首だけのスピードで

       落ちはじめている


          Bird 
                     
                                      E.A.Cranston訳

There’s one that freezes to death
in midair


There’s one that’s a headless body
falling to death
beaten by hail


Caught by surprise
drowning in the sky
instantly the bird
clutches with the feet of fear
its first sky

Out of the depth of that sky
its head has already begun
at the speed of head alone
to fall


  ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
    これは第一詩集「動物図鑑」に載せた作品です。
    五月頃、はげしい雹に撃たれて落ちる鳥がいるという事をきいて書いた作品です。
    


  

投稿者 ruri : 08:53 | コメント (0)

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2009年07月31日

オーロックスの頁・(The Aurochs Page)

            オーロックスの頁
                                         水野るり子

      この地上が 深い森に覆われ

      その中を オーロックスの群れが

      移動する丘のように 駆けていたころ

      世界はやっと 神話のはじまりだったのか

     

      貴族達が 巨大なその角のジョッキに

      夜ごと 泡立つ酒を満たし

      ハンターたちが 密猟を楽しんでいたころ

      世界はまだ 神話のつづきだったのか


      やがて 森は失せ

      あの不敵な野牛たちは滅びていった

      うつろな杯と 苦い酔いを遺して
      
      破り取られた オーロックスの長いページよ

      世界は それ以来 落丁のままだ 

        ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

(オーロックスは長い角をもつ大きな野牛であり、飼牛の祖先だった。ユニコーン伝説のもとになり
旧約聖書にも登場する。角はジョッキとして珍重され、肉は食べられ、1627年に最後の1頭が死んだ)

       


 The Aurochs page
                              ( Edwin A.Cranston訳)

The earth was covered in dense forest

through it roamed herds of aurochs

like moving hills   maybe the world at last

was entering the time of myth 


When nobles every night filled giant horns

to overflowing with the frothy mead

and hunters took their sport in poarching game

maybe the world was still in myth’s continuum


Finally the forest vanished

those intrepid wild oxen followed into oblivion

leaving hollow drinking cups    and a bitter intoxication

the long aurochs page    torn out    the world’s book
  
has ever since been incomplete


      ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

(この作品は以前「夢を見てるのはだれ?」という葉書詩のシリーズに発表したものです。一部訂正しました。)

投稿者 ruri : 10:55 | コメント (0)

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2009年07月29日

灯台(Lighthouse)

                     灯台        
                         
                 水野るり子

                 真夜中の空に
                 雪が降りつづいています
  

                 鳥は もう一羽の
                 相似形の鳥への
                 ひたすらな記憶によって
                 風の圏外へ飛び去り

                 
                 魚類は凍てついたまま
                 聴覚の外を回遊しています


                  〈カタツムリの螺旋は暗く閉され〉


                 私は内側に倒れたローソクを
                 ともすことができません


                 そうして
                 残されたこの島の位置は
                 今 闇に侵蝕されていきます

                                     『ヘンゼルとグレーテルの島』より


                 Lighthouse        ( Edwin A・Cranston訳)


        Snow falls steadily in the midnight sky

         
        A bird 
        impelled by memory of another bird
        shaped like it
        flies away
        out of the wind.
     
       
        Fish
        still frozen
        circle beyond earshot

              

            〈The snail’s spiral is dark,closed in〉

        I cannot light the candle
        that fell over,inward


        And now
        the location of this island still remaining
        is eaten away by the dark  


         
 
           

投稿者 ruri : 10:31 | コメント (0)

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2009年06月29日

「月の魚」と英訳

先日紹介させていただいたEdwin A Cranston著「The Secret Island and The Enticing Flame」から、幾篇かの自作品と、Cranstonさんによる訳を載せていきたいと思います。

           月の魚                     水野るり子

   魚よ
   おまえは涙をながしているね
   アンダルシアの原野をゆく
   一頭のロバの背中に
   下弦の月がかかるとき…
   永遠のある一日からひきあげられ
   遠く運ばれていく魚よ
   おまえは乾いていく大地への
   一滴の供物なのか

       Moon Fish (translated by) Edwin A Cranston
    
     o fish,oh
     you shedding tears over
     Andalucia carried
     donkey-back up wild fields
     a waning moon
     drawn bowstring down
     up from one day in eternity
     far,far o fish,carried away:
     you are like one drop of offering
     for the drying earth


   魚よ
   おまえの魂はどこへいくの
   透き通った空の大きな壷のなかで
   月がだんだん欠けてゆき
   おまえが運ばれる土の器から
   海はひとしずくずつ蒸発していく
   すると 魚よ
   おまえの小さなからだは
   月のさみしいかたちに似て
   弓なりに空へはねる


     o fish, oh
     your soul-globe’s going
     in the great transparent
     bowl of sky the moon
     breaks piece by piece
     and the sea dries away
     drop by drop from the earthenware vessel
     where you’re carried, o
     fish,oh
     your little body
     copying the lonely shape of the moon,
     leaps bowlike toward the s
ky.


  魚よ 
  何万光年かなたの星にまで
  その水音はとどくだろう
  おまえはそのころ
  憶い出のように
  月のない空にかかって
  うしなわれたこの水の星を
  見下ろしているね


      that sound of water
stars will listen to
ten thound years from now:
Then you are
hanging in a moonless sky
like a memory
looking down on a lost
waterless planet.



これは1990年頃の作品です。詩集には入れていません。英訳されてから1,2箇所の小さな訂正をしました。


  

     
   
  
  

   


 
  

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2008年12月07日

斉藤なつみ詩集「私のいた場所」から

最近出会った好きな詩集です。
それは斉藤なつみさんの「私のいた場所」という詩集です。そこから2篇を載せさせていただきます。


            馬               斉藤なつみ

       土壁造りの馬小屋の
       四角くくりぬいた窓から
       馬は いつも顔を出していた

       窓の奥は暗く
       そこから深い闇が始まるようで
       うっそうと木々の繁る道からは
       何も見えなかった

       焚き付けの杉葉を拾いに
       父と山へ歩いていった日にも
       馬は窓から顔を出していた

       その家で主の葬儀のあった日にも
       馬は顔を出していた
       顔を出して
       弔いに集まった人びとの頭上遠くの
       空を眺めやっていた

       馬には顔しかないのだった
       田を耕し
       重い荷を負った体は
       馬小屋の闇にとけて
       きっと もうないのだった

       空にはいつも 
       碧い風が吹いていたから
       顔だけが
       忘れてしまった風景や
       まだ来ない風景に
       まなざしを
       遠く
       投げているのだった

            

       
       いつか 家路をたどるわたしの前にきれいな夕
       焼けの空が広がっていた
       けれども あれは本当に夕焼けだったのだろ
       うか
       赤々と林の向こうに沈んでいく夕日の色も
       刻々と闇にのまれていく林の木々も 本当は
       風のように吹きすぎていくだけの時間だった
       のではないか
       眩しい朱の色で 西の空に刷かれた時間
       もうここにはない


       ならば 遠いむかし 人と肩を並べて見上げ
       たトウカエデの木も 公園の片隅で枝をのば
       し 木漏れ日を揺らしていた時間だったに違
       いない
       貧しくみすぼらしい夢しか持たない私たちの
       頭上にも 果てしなく広がる空のあることを
       指し示し しずかに葉をそよがせていた
       けれども そのそよぎあう葉も 光も そし
       て 手にふれた幹の温かさも 過ぎていく時
       間のことだったのだ
       〈木〉と名付けられ 樹木のかたちをして
       私たちの一日に届けられた


       なつかしいふるさとの町の夜道を照らしてい
       た古い街路灯も 時間のことだったのだ
       スズランの白い花のかたちに 小さく灯をと
       もしていた 私にはそう見えた
       けれども 足元をやさしく照らしていたその
       あかりも 路上に映った母の影も 幼い私の
       影も 遠くへ過ぎていく時間のことだったの
       だ
       耳にのこる母の下駄の音さえも 辺りをつつ
       む夜気の匂いさえも


       いくつもの美しいかたちを私に現しながら
       遥かへと 流れ去っていった時間
       永劫再びめぐり逅うことも叶わない
       そして…
       過ぎた日の思い出を さびしくなぞっている
       この私もまた 過ぎて戻らない時間のことな
       のだろう


       つかのまの人のかたちに見えて 滔々と宇宙
       の闇に流れつづける時のなかへと 還ってい
       くだけの

     ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

存在とは何か?…時間や空間のかなたから、形にならないある本質的なイメージを、形象化して伝えてくれる…そんな詩法に触れて、存在のもつ深い時間そのものをかいま見ることができた…そんないい詩集でした。
「馬」という作品では(馬には顔しかないのだった…)ではじまる5連目がこの詩作品全体を照らす光のように啓示的でしたし、「時」という作品の比喩も思いがけない新鮮さで心を打ちました。斉藤さん、いい詩集を有難う!という気持ちで読ませていただきました。
      
  

                  
         

              

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2008年11月03日

弓田弓子詩集「灰色の犬」から

横浜詩人会創立50周年を記念するネプチューンシリーズが発行中だが、最近送られてきた弓田弓子さんの『灰色の犬』は傑作な詩集だった。寸鉄人を刺す…ではないが、寸鉄日常を穿つ!といいたい詩が多く、とてもおもしろい詩集だった。詩人の眼で日々を生きるということは、こういうことかもしれない。私はなんとおろそかに日々を送っていることか。


               ボール投げ

             「吉田橋」を経て
             「関内」から
             「馬車道」へ
             せかせか
             辿っていると
             背中にばーんと
             ボールがあたり
             急くな、と
             呼び止められた
             思わず振り返ったが
             知り合いは 
             見当たらない
             ビルディングの
             凹凸の後ろに
             赤赤と陽が
             落ちて行くところだった
             わたしは
             眼の中を赤く染めて
             見えないボールを拾い
             緩やかに
             投げ返した


            
           日が沈みかけている 

          炊飯器の炊飯を指先で押しそれだけの力で
          目がくらんだ 日が沈みかけているので地
          が傾いたのかもしれない あっけない  指
          先で 米が 炊けてしまうのだから あっけ
          ない


          いつからこんなに簡単になったのか くら
          む頭の中で炊飯器の型が変化していく

 
          どうしたのか まるで別世界にいるようだ
          性別 生年月日を声に出して暗唱してみる


          改良されていく炊飯器をじゅんじゅんに手
          に入れて米を手に入れて炊いてきたが こ
          れだけのことだったのか 米をこんなふう
          に簡単に炊いて一生が終わってしまうもの
          なのか


          つまらなくなってきた 改良されていく生
          涯なんて あっさり炊飯器を買ってしまい
          買えてしまう 便利な炊飯器を買うために
          何をしてきたのだろう ただただ手に入れ
          てきたのだ


          炊飯器の研究をする人 デザインする人
          製造する人がいて運ぶ人がいて店に並べる
          人がいて 売る人がいて 買う人がここに
          いて 米が炊きあがるのを待つ人がここに
          いて


          なにもかも厭になってきて 炊飯器に吸い
          こまれているのに 身をまかせているのが
          厭になってきて このまま生が尽きていく
          のが見えているのに逃げることもしないで
          いるのが


          厭になってきたが 米が炊きあがるいいに
          おいがしてくる 


      
        ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

最初の詩の、さりげない、まぶしい切り口。それから二番目の詩の批評の痛さ。(おおげさではなく、身に染みる。)
そのほかにもたくさんおもしろい詩が載っていて困ります。


        
    

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2008年10月29日

雲の映る道 高階杞一詩集

高階杞一さんの新詩集『雲の映る道』には好きな詩がたくさんあった。以下はその中の作品からです。

                   いっしょだよ

               かわいがっていたのに
               ぼくが先に
               死んでしまう
               犬はぼくをさがして さがして
               でも
               いくらさがしても
               ぼくが見つからないので
               昼の光の中で
               キュイーンと悲しげな鳴き声をあげる
               その声が
               死んだぼくにも届く
               
               ぼくは犬を呼ぶ
               こっちだよ こっちへおいで 
               犬はその声に気づく
               ぴたっと動きを止めて
               耳を立て
               しっぽをちぎれんばかりに振って
               一目散にぼくのところへやってくる
               ずいぶん痩せたね
               何も食べてなかったの?
               キュイーンとうなずく
               ぼくは骨をあげる
               犬はぼくの骨をたべる

               おいしかった?
               クー
               これからずっといっしょだよ

         ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

哀しい詩で、とくに犬の好きな私なので身に染みました。骨に関しては、もうひとつ、とても忘れられないような「春と骨」という詩があるのですが、あえてここには入れませんでした。いつか読んでください。子どもさんをなくされた詩人の経験の深さが、短い詩の中から切なく伝わってきて、前の詩集『早く家へ帰りたい』をもう一度読み直したりしました。


                   新世界 

               リンゴの皮をむくように
               地球をてのひらに乗せ
               神さまは
               くるくるっとむいていく
               垂れ下がった皮には
               ビルや橋や木々があり
               そこに無数の人がぶらさがっている
               犬も羊も牛も
               みんな
               もうとっくに落ちていったのに
               人だけがまだ
               必死にしがみついている
               たった何万年かの薄っぺらな皮
               それをゴミ箱に捨て
               神さまは待つ
               むかれた後の大地から
               また新しいいのちが芽生え
               みどりの中から鳥が空へ飛び立つときを
               そこに僕はいないけど
               人は誰もいないけど

                
            ””””””””””””””””””””””””””””””””””””

新世界っていうのは、人間のいない世界なんだと気がつきました。
まだ神さまのゴミ箱の底にうごめいている一人として。
  

        

                                           


  
   
                

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2008年10月22日

詩 夕餉の食卓

今日は佐藤真里子さんから送られてきた詩を載せます。2008年10月10日に陸奥新報に載ったものです。

              夕餉の支度             
                                  佐藤真里子

         西の窓が薄赤く染まるころ
         (行こうよ…)と
         背後から近づいてくる闇に
         負けないように
         わざと音を響かせて
         野菜を切る
         同じ生きものの生臭さで
         包丁に力をこめて
         魚をさばく
         沸騰する鍋のふたを取ると
         いきなり吹きかかる湯気が
         何もかもを
         眠りの夢に変えそうで
         思わず開ける窓
         外は沈む陽の色になり
         虫たちの奏でるヴァイオリンは
         高く低く余韻を引き
         (行こうよ…)と
         すすきの穂のたてがみをゆらして
         幻のけものたちが駆けていく
         その先には
         いつも気配だけで背中合わせの国
         夕暮のさびしさの訳を
         知っている国がある
         毎日、いまごろ
         その国行きの電車が停まる駅が
         かすかに見える
         (行こうよ…)と
         宙から下りてくるレール
         宙へと消えるレール
         今日も乗りそびれて
         電車が走り去る音だけを聞く
         魚の美味しいスープは
         煮えたけれど

             ””””””””””””””””””””””””””””””””””     

いい詩だなあと思った。日常の当たり前の行為と、それをめぐる時間が、想像力によって、一気に広がり、深まり、宇宙性を取りもどす。詩人は言葉によって時間の質を変貌させてしまうのだ。ファンタジー的な手法がうまく生かされていて、(行こうよ…)いう呼びかけのくりかえしが、時の経過をリズミカルに伝える。銀河鉄道999のイメージも浮かぶ。秋の夕ぐれのさびしさと、憧れに似た想いが、ロマンチックな心情を伝えてくる。そして最後に今夜の美味しい食事タイムを連想させるのもさすが…。

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2008年07月12日

短い詩二つ 

前田ちよ子さんの作品を何回か載せてきましたが、さいごに二つ短い詩を
載せさせていただきます。このブログがどなたかの目に触れ、そのユニー
クな詩世界の片鱗でも心に残していただければ、彼女もどんなにか喜ばれ
ることでしょう。

                 蜆貝


            気温が下がり
            徐々に流れの速さを落して行く河口で
            僕達は聴覚の夜に重くなる
            時に降る雨音
            時に帰る鳥の笛
            時に風の低いうなり


             小さすぎた僕等
             一生しゃべる事のない紫の舌


           二枚の固く黒い耳介の中で
           僕達は作る事を忘れた音の世界に住んでいる

            
           ほのかに舌の先にランプを点す
           何気ない平(たいら)かな砂の底の夜


             埋蔵された何千何万の言語
             ひとつひとつの僕等 

                              詩集「星とスプーン」より

                
               月と野ざらし


             まあるく
             黄色い月が浮んで
             虫達はため息ばかりつく。
             野ざらしが二つ
             酒をくみかわして
             かわるがわる月を見上げる。
                
               ところで……おん
               どうして死んだ
               ……わかん……ねえ
               な、あ、ん、に、も、な……あーん
               な、あ

             風が真青になれば
             草はきしんで枯れもする。
             あばら骨もひどく痛いもの。
             青はそれほどとっぷり深い。
             酒もしっとり
             二つの野ざらしはもう上を見つめるばかり。
             コンパスの月は定められた。     

                                詩集「青」 (1969)より

              ※      ※      ※

この最後の詩は彼女が20歳になったのを記念にと、ご自分でガリ版で
手作りした「青」という小さな詩集からです。
彼女の本質にはこのようにユーモアと飄逸さを感じさせるものがありました。
それは亡くなる直前まで届いたいくつかのメールにも一貫していました。


           
                     
            
               
                

    

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2008年07月08日

詩集「昆虫家族」(1988)ー七月堂刊ーより

            土の器

                                  前田ちよ子
  地が造られ、その終りに余った土で造られた器が地の
  一端に据えられた。 その器の底に、いつからかこどもが
  住まっている。

  器に続く地では日々色々なことが起り、その中をかす
  かな死臭を漂わせた大きな生きものが、ひたひたと身を
  低くして歩みやってくる。やがて器にたどり着くと縁で
  立ち止まることもなく、器の内側の丸味のある闇を深々
  と下りて行く。

  大きなものは器の底で走り寄るひとりのこどもの腕に
  抱き取られると、ゆっくりと体を横たえて、その頭(かしら)をこ
  どものひざの上に載せる。角ある頭(かしら),荒い毛の立ち並ぶ
  背を撫でるこどもの手のひらの温もりに、生きていた大
  きなものはうっとりと死に始め、閉じたまぶたの傾いた
  端から涙のように自分の魂を生み終える。

  土の器のどこからか、たくさんのこども達がめいめい
  手に合った椀を持って集まって来る。円座して、魂の残
  していった血と肉とを少しずつ分け合っている。ひとり
  が ほら見てごらん とほほえんで言うと、はるかこど
  も達の暗い頭上を、一個の魂がほのかに輝いて昇って行
  くところだった。

                  天秤皿
                                     前田ちよ子

  
   私達は片方の天秤皿の上で生れていた。私達を生んだ
  ものが何であるかは知らなかった。皿は巨大で、朝と昼
  と夜のある宙に浮いており、はるか下の方は闇の雲がゆ
  っくりと大きく渦巻いていた。私達の載った皿の対(つい)の
  天秤皿はおろか、皿を支える支点さえも遠く遠く霞む大気の
  向こうにあって、私達は見たこともなかった。


   皿の上には何もなかった。風の吹く度にどこからか流
  れて来る砂がわずかずつたまり、やがて砂は土になった。
  私達は拾い集めておいた種をそこに播き、空一面から降
  る雨と光とで種から苗を育て、実を収穫した。繁る草に
  ひそむ虫を捕え、干して保存した。季節の変わる時には、
  頭上を渡って行く鳥の群の互いに呼び合う声を頼りに弓を
  引いた。私達は日毎大きくたくましくなっていったが、私達
  の載った皿は次第に宙に上(のぼ)っていった。


   寒い日の夜は火を焚き寄り添って寒さをしのいだ。そ
  んな時私達はもう片方の皿に何があるのか話(はなし)した。
  小さな弟はカラスだと言った。たくさんのカラスが卵を産んで
  いるのだと。 三番目の兄は父と母だと言った。父と母とが
  私達が大きくなる以上に肥えて行くのだとーー。無口な一
  番上の姉がいつかこんな風に集まっていた時、一度だけ
  自ら話し出したことがあった。「私は思う。あそこにいるの
  は私達ではないかと。私達があそこでふえているのではな
  いかと。 「ああ。私達はふえるのをやめようではないか。
  兄や姉、姉や弟、妹や兄、弟や妹。私達はそんな関係
  (あいだ)でふえるのはやめようではないかーー


   姉はその後死んだが、私達は姉の言葉を守ってふえず
  に生きた。あれからも私達の皿は少しずつはてしなく天へ
  近づいていく。薄くなる大気と夜のなくなった一日中明るい
  光の中にいて、私達の肉体は内側から透けるようになって
  いた。 余り動くこともなく、話しをすることもなく、今では
  もう食べなくてもよくなっていた。


   収穫をしなくなった穂はいつまでも青々と豊かに実り、
  たくさんの虫をその中に隠していた。渡り鳥は頭上を渡
  らずに、皿の下の方を鳴いて渡って行く。


   今でも 私は思う。あの大きく渦巻く闇の中を、更に
  静かに沈み続けて行く私達の対(つい)の天秤皿。あの
  皿の上の「重さ」。 あれはいったい本当に何なのだろ
  うか…と 。


          *          *           *

     前田さんの第2詩集「昆虫家族」から2編載せました。
     ( )のなかは原文ではルビになっています。  

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2008年07月07日

前田ちよ子詩集「星とスプーン」より

前田ちよ子さんの詩集「星とスプーン」(1982)より2編載せます。

             氷河

        (ああ 迎えにきたのだね……)

     家の門の暗がり
     遠く(たぶん 遠く)
     四つの脚をしてやって来たおまえと
     私は家を出よう

     うなだれたふたつの耳と
     私は連れ立って
     街を抜け
     幾つもの山を越えたところ
     私達のはじまった
     あの茫々の草原の波の中に
     おまえと抱き合って沈む…

      覚えているよ
      おまえが犬といわれるものでなく
      私が人間(ひと)といわれるものでなく

      大気を浮遊していた
      おまえと私との生命源(プラナ)の邂逅の後の
      一粒のぶどうの種のような
      さみしい抱きあいの重み
      この草原の底に沈んで
      私達やたくさんの生命源(プラナ)達の
      静かに降らす夢で
      幾重にも幾重にも自分達の眠りを
      埋蔵していった……

      きしきしと
      夢の氷河の亀裂(クレバス)を
      きしきしと
      きしきしと
      私達の氷る耳の傍を
      目覚めたもの達の足音が
      渡って行ったね
      やがて
      私達も溶けるように目覚め
      すりへった地層の階段を上って行くと
      そこはまだ昨日の明けていない
      渦巻く草原だった

      私は草を焚き
      かげろう青い炎をはさんで
      おまえとゆらぎながら向かい合っていた
      その時
      おまえは一本の細い垂れた尾を持っていて
      私はわずかな文を書くことばを持っていた 

      ただ
      おまえも 私も
      溶けきらない灰色の眼をしていたのを
      互いに深く見つめ
      それから
      炎が落ち

      別れたね


     今も
     私のことばは
     拙い文しかつづれない
     おまえの細い尾は
     そうして垂れたまま
       (いったい何処の冷たく堅い土に
        自分を繋げていたのだろうか)
     変わらない灰色の眼のまま
     おまえは
     私の中の灰色を想って
     遠く(たぶん 遠く)
     出会いにやって来た

       ねえ 決して思うまい
       私達のこの土の上での
       骨と肉のはじまりに
       私達が眠りすぎたなんて
       遅すぎたなんてね

       草原の底深くからの
       私達の目覚めの時に
       溶けきれなかった灰色の部分
       それが私達そのものだったのだから


    
     うねる草原に
     重かった肉と骨をぬいだら
     私と おまえと
     ふるえる大気の中を
     別れて行こうね……
     今度こそ
     溶けない夢の降り積む
     眠りへの出合いのために


         
          たとえば


     君と別れ
     これから漂流する僕が
     いつか
     疲れはてて港に行き着くことがある
     気流の変わる
     日没の海を眺め
     寄せて引く波の振動を聴くうちに
     たとえば
     ふと 自分が以前
     あかね色の脚のかもめだったことを
     思い出すかもしれない

      
       僕はかもめだった

    
     僕はそこで人間(ひと)の形を解いて
     かもめになる
     それから
     翼を広げたあかね色の脚のかもめの中で
     僕はひたすら疲れながら
     飛んで生きるだろう
     かもめの以前(まえ)の僕を
     ふと 思い出すまで
     僕は
     僕の形を
     そうやってどこまでも遡り
     やがて僕が
     もっとも僕であったところまで行き着く

    
     君
     君も
     合わせた鏡の奥深くから
     一つ一つノブを回す度に
     変化した形を思い出して遡る
     そしていつか きっと
     最後の扉を開けてたたずむ君と
     僕は向き合う

     
     言葉や肉体で現せない
     あらゆるもの
     あらゆるもので
     不変の
     ただひとつのもの
     君 そして 僕

                  

                 *    *    *

   作品の中の( )は原文ではルビになっています。


             

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2008年04月14日

七月

 田代芙美子さん発行の「泉」66が届いた。充実の内容。いいなと思う作品がいくつもある。田代さんの連載エッセイ「マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の光と影に」はもう45回目だ。綿密な考証と、のびやかな筆の運びに魅せられて、毎回楽しみに読ませていただいている。彼女のプルースト研究の師である井上究一郎氏には、私も大学時代に教室でプルーストの講義をきいた。そのころちょうど出始めたこの翻訳を毎月一冊ずつ貴重品のように購入した頃の胸のときめきを思い出す。

 今は井上氏も逝かれた。いつか新潟の田代さんのお宅を伺っ折、「失われた時を求めて」のゆかりの地を訪れた際のエピソードなどを、彼女のお手製の梅酒をご馳走になりながら伺ったことなどを思い出す。忘れがたい愉しい時間だ。
  
 ここでは66号の巻頭に置かれた財部鳥子さんの詩をご紹介したい。このような詩を読むと、なんの説明も不要。ただ極上のおいしい一品に出会えた気がする。一期一会。それもさりげなく…。なんて洒落た詩だろう。

                七月          
                            財部鳥子

          
           七月の空気は裸
           
           恥ずかしいから蓮の池に隠れている

           大きな葉のしたから蕾を高々と掲げて

           みんなに見せている

           

           たいていは朝の水辺でのこと

           すっきり伸びた茎の先の蕾がやわらかい指を開くとき

           花のてのひらが

           木霊を隠していたことが分ってしまう


           一輪 ひらいて ぽん 幽かなおとがして

           山の空気は宙へ帰っていく


                      
           祖母は百歳のてのひらを

           そっと 蕾がひらくときのように開いてみせた

           無数のしわに刻まれた手のひらから

           七月の無音のおとが空に放たれた


           しずかに目をつむってお聞きなさい 
           
 

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2008年04月01日

something6より

このところ雑事に追われ忙しく暮らしていて、いまごろになって、鈴木ユリイカさん発行の「something6」をゆっくり読むことができ、そのなかでいくつもの作品に出会い、いつもながらのようによい刺激をいただくことになった。今日はそのなかから、以下の作品を引用させていただくことにしたい。


              夏茱萸     
                           尾崎与里子


            かぞえていたのは

            梅雨明けの軒下の雫と

            熟しはじめた庭隅のグミ

            そのグミの明るさ

            私は〔老女〕という詩を書こうとしていた

            眼を閉じるとひかりの記憶に包まれて

            すぐに消え去ってしまう いま と ここ

            時間のなかで自画像が捩れてうすく笑う

           
            初夏の明るさに

            この世のものでないものが

            この世のものをひときわあざやかにしている

            母性や執着の残片があたりに漂って

            耳もうなじも

            聞き残したものを聞こうとしてなにかもどかしい

            それはふしぎな情欲のようで

            手も足も胸も背中も

            そのままのひとつひとつを

            もういちど質朴な歯や肌で確かめられたいと思う

            刈り取られていく夏草の強い香

            ひかりの記憶

            たわわにかがやく夏グミの

            葉の銀色や茎の棘

           〔老女〕はきらきらした明るさを歩いていて

             ※      ※       ※


 私は母の死後、このようにもvividに失われた彼女の時を生きなおしただろうか。とくに2連目の、草
いきれのように匂い立つ、生と死をゆきかう時間の感触。よみがえる時のきらめき。このような詩に出
会うと、私にはいまというこの一瞬さえ惜しまれてくるのだ。

 また「いとし こいし」も楽しく秀逸なエッセイだった。

      
      

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2007年12月24日

左岸

 12年間休刊中だった詩誌「左岸」が復活し、このたび「続・左岸」31号が送られてきた。同人は新井啓

子さん、広岡曜子さん、山口賀代子さんの3人である。以前のもそうだったが、今号はいっそう瀟洒な装

丁で、清楚な雰囲気が心地よい。さすが女性たちの詩誌という思いで読ませていただいた。そのうちの

一篇を紹介させていただきたい。


                 

                    蘚苔             

                                               山口賀代子

おさないころ

祖母につれられ わけいった深い森のなかのちいさな流れのそばで

石にしがみつくようにはえている苔をみたことがある

植物と水の匂いのする濃密な世界のなかで

まじわっていたわたしたち



五十年たち

湿度のたかい都市の一室で苔とくらしている

枯れ草のようになっていたものが

ほんのりうすみどり色になり

濃い緑になり

太陽のひざしを浴びると金色にかがやきはじめる

ただ光をとりこんでいるだけのことかもしれないのに



黄金色のちいさな花〈…だろうか)がさいて

胞子がとぶ

そのしなやかなベルベット状のものをひとつまみ

実生から育てた欅の根元に移す

と しばらく

いきおいをなくし枯れたかにみえるものを

根気よく水遣りをつづけると

黄色いちいさいひらべったい塊が黄金色にかがやきはじめる



ちいさな森がそだちはじめている

都市の一隅でなにほどもなくいきる女のかたわらで


                       ※
 


 ちいさな森…ちいさな森…ちいさな森…。そうだ、わたしも身辺にちいさな森を育てなければ…。森では

いろんなことが起こるのだから。おさない兄妹がパンくずをこぼしながら、歩いているかもしれない。魔女

の家だって建築中かもしれない。この星の上から森はいま静かに消えつつある。せめて身辺にちいさな

森…ちいさな森…ちいさな森をつくっていこう。

                 

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2007年10月14日

文芸コンクール

 今年は、第37回神奈川新聞文芸コンクールの現代詩部門の選考をさせていただいた。今年は暑い夏だったが、さらに熱い多くの方々の表現への意欲となまの声に触れることができたのは新鮮な経験だった。もう紙上にも発表されたので、ここに第一席の入賞作を載せてみたいと思う。


                   ヒマワリ          
                                         志村正之


              朝の輝きで一杯に盛り上がっている海を
             
             両手ですくい挙げて顔を洗った。


              
              指の隙間から光の雫が

             バシャバシャと溢れ落ちていく。

              

                あの山のイノシシの鼻に

               大きな工場の煙突の中に

               僕が過ごした小学校の

               グランドに引いた白線の上に


               
               川から飛び出した岩の端っこに

               八百屋や魚屋や

               干からびた田んぼやみかん畑に

               
               小さな駅のレールの上に

               鉄屑の山に乗っかった

               ステレオの回転盤に

               新しく出来た

               道路とマンションのコンクリートに


             
             そして、昨日君が撒いた

               小さな花壇の

               ヒマワリの種の上にも。


          ※              ※

 この詩を読むと、生きてるってすてきなことだなあ…と全身に感じます。あたりがザワザワしてきます。習慣的に繰り返している平凡な行為やしぐさも、想像力を生かすと、とんでもない豊かな広がりと奥行きをもっているんだなあ…と。
読んで幸せになる作品でした。作者は陶芸家とのこと。いつも五感で直接モノに触れている方なんですね。  

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2007年07月05日

「のどが渇いた」 八木幹夫

 6月の読売新聞掲載の八木幹夫さんの詩を、あらためてここに載せたい。


              のどが渇いた             八木幹夫

       どーっとかたまりになって走っていった

       象の大群ではない

       どーっとかたまりになって動いていった

       土砂くずれではない

       ずーっとかたまりになって揺れていた

       逃げ水ではない

       ずーっとかたまりになって働いていた

       更新された機械ではない

       ときには

       鬼の充血した目のような

       マグマをのぞかせることもあったが

       おおむね我慢した

       

       かたまりになるのは嫌だったから

       朝早く家をでて

       会社へも 外国へも

       この世の果てならどこへでも

       飛び出した

       かたまりのまま

      


       どーっとかたまりになって定年退職

       塊

       ニンゲンのかたちとは似て非なるものだ

       土まみれの鬼だ

       ついに

       コケ生す巌(いわお)となるようには

       一枚岩にならなかった

       どーっとかたまりになって死亡通知

       (ここで一同起立 君が代斉唱)

      

       ひかりの揺れる川床で

       それぞれのさざれ石はあぶくのように

       つぶやいた

       「のどが渇いた」 

             ※

読むと分りやすいが、書くのはなかなか難しい作品だ。この鮮やかで痛烈な風刺に、「やった!」と胸の中で叫んでしまった。とくに3連、4連の切れ味のよさ…。
八木さんに言わせれば,「団塊の世代の自虐と揶揄と風刺をこめた」作品ということになるが、団塊の世代でなくとも、今の時代と世相を生きる多くの人間にとっては、胸のすく思いで読める一篇ではないか。

       

        

        

投稿者 ruri : 21:38 | コメント (1) | トラックバック

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2007年03月22日

「いっしょに暮らしている人 」(2)

この羽生槙子さんの詩集には、”いっしょに暮らしている人”についての詩が、このほかにもいくつか載っていますが、今日はちょっとまた違う味わいの作品を紹介してしまいます。
これは夢についての詩のようです。

                        旅芸人のはなし


              「わたしたちみんなで 家を捨てて
               旅に出ることになったの
               ピカソの絵の旅芸人のように
               サーカスをする人たちのように
               旅は海
               夕暮れ 海辺でわたしたちが地引き網を引くと
               魚ではなくて とりのからあげがあがってきた
               とても大きいからあげだった
               きたないような きれいなような
               けれど 地元の人たちが来て
               そんなおおげさなことをしてもらっては困る
               と言うから わたしたちはまた
               荷物をたたんで旅をしたの」
              夢のはなしを 朝 わたしは家族にしています
              そこから 波瀾万丈の暮らしがはじまった夢


              家を捨てて みんなで旅に出るはなし
              旅芸人になるはなし
              その先を わたしがもう覚えていないはなし
              だから だれも知らないはなし
              そこでわたしは何をし
              わたしの家族は何をしていたのだったでしょう
              わたしたちは 赤や青の服を着ていたようでした
              だれか上半身裸で だれかタンバリンを持ち
              地引き網は藻がからみ
              さびしくて サバサバして
              けれどお互い話したいことが次々あって歩き続けていた


                          ※

おもしろい詩ではありはませんか。その家族たちは(自分も含めて)今もどこかでその続きを暮らしている…そんな気がしてきませんか。私はこの詩の中で、2連目の「地引き網は藻がからみ」という1行が、この詩にリアリティを与えている気がします。詩の1行の力は不思議です。私は不思議な詩が好きです。                     

投稿者 ruri : 21:17 | コメント (1)

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2007年03月21日

「いっしょに暮らしている人」

お彼岸の朝、TVで9.11のドキュメントと、それに続くイラク戦争の映像を見ていて、心がささくれ立ち、血が流れはじめる。もう、辛くて途中で消した。

その後、羽生槙子さんの「いっしょに暮らしている人」という詩集をまた読む。少し心が落ち着いて、頭上に晴れ間が見え、日差しがほのかにみえてくる。こんな風にして人びとは毎日暮らしている。ここに当たり前の生活があるのに、と。


                       平野

           庭では すすきの垂れた穂に
           のらねこの子ねこがあきずにとびついて
           あの人が娘家族のところに行くので
           わたしは
           ゆで栗とゆでぎんなんと梅干しと
           ぶどうを持っていってもらいます
           栗は人からいただいたもの
           ぎんなんはあの人が
           勤め先のいちょう並木から拾ってきたもの
           梅干しはわたしが漬けて干したもの
           ぶどうも人からいただいたもの
           木の実ばっかり
           秋ですから
           あの人はりすのおみやげみたいのを
           持っていってくれるでしょう
           大きい川が流れる土地を
           銀色の帯のような川を
           あの人は四つもわたっていくでしょう
           関東平野を横切るのでしょう
           あの人はあした
           孫娘の保育園の運動会を見に行くでしょう
           関東平野の秋の日ざしを見にいくのです
           子どもをそりにのせて走る
           競技にまじって走ったりするのかもしれません
           あの人は
           秋の木蔭のチラチラする光を
           頭からかぶりに行くのです
           遠い山々からの
           木枯らしの前ぶれみたいな
           風の中に立ちにも行くのでしょう
           あの人は 木の実のおみやげをいっぱい持って
           銀色の川を四つもわたり
           平野を横切り
           空の青に顔をひたしに
           秋の運動会に行くのでしょう


                      ※


 この語り口と、歩行するリズムの心地よさに、自分の呼吸をつけながら、想像力が共に旅をしていく。
長く暮らして老いを迎えつつある日々の夫婦の暮らしの中で、このようなナイーブなまなざしを持って、パートナーへの想い(生きることへのなつかしさそのものみたい)に、ある角度から光をあて、詩作品に取り入れることは、とても難しいことではないか。ナイーブに、気取りのない表現で。
 これは多分羽生槙子さんの「言葉」へのながい修練と、また生きることへの持続的な意識のあり方からのみ生まれたよき収穫なのだと思う。
 そして、これはまた女性であるからこそ書けた詩かもしれない。現代詩のなかで、家族や夫婦の関係についての、(人と人との関係についての)あるあたらしい表現意識ではないか。それは、当然詩人の生きてきた、ぬきさしならないありように負っているのだけれど。

次回、もう一篇魅力的な詩を引用させていただきたい。
   
               

投稿者 ruri : 10:43 | コメント (0)

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2007年02月13日

ロバート・ブライの詩 中上哲夫訳

中上哲夫さんから「十七音樹」という俳誌が送られてきた。中上さんはもう20数年間、ブライの詩を読み続けてきたとのこと、特に2005年から若い詩人たちとブライを読む会を月一回開いてきたとのこと。
私もその訳を読んで、新鮮な印象を受けた。ここにその俳誌2号に載った、ロバート・ブライを読む(1)−恋をするとーから、引用させていただくことにした。


LOVE POEM


When we are in love, we love the grass,

And the barns, and the lightpoles,

And the small mainstreets abandoned all night.


恋の詩     

恋をすると、ぼくらは好きになる、草原を、

納屋を、電信柱を、

そして夜通し見捨てられた本通りを。

          
DRIVING TO TOWN LATE TO MAIL A LETTER

It is a cold and snowy night. The main street is deserted.

The only thing moving are swirls of snow.

As I lift the mailbox door, I feel its cold iron.

There is a privacy I love in this snowy night.

Driving around, I will waste more time.



夜遅く車で町へ手紙を出しに行く      

寒い、雪の夜。本通りには人っ子一人いない。

動いているのは渦巻く雪だけ。

郵便ポストの蓋をあけると, 鉄が冷たい。

こんな雪の夜にはわたしの好きなプライヴァシーがある。

その辺をドライブして、も少し時間を浪費しよう。

                  

(この訳の”プライヴァシー”という表現が心に残った。PRIVACYとう言葉は、日本語に訳すのはここでも難しいというのが分かる。プライヴァシーが意味する観念を日常の日本語ではまだ表わせないんだと気がつく。では最後に訳された詩だけを…。 ) 


         


 雉子撃ちの季節の最初の日曜日なので、男たちが獲
物を分けるために自動車のライトの中に集まる。 そし
て電気の近くで押し合いへし合いし、暗闇に少し怯え
ている鶏たちがこの日最後の時間に小さな鶏小屋のま
わりを歩きまわっている。鶏小屋の床はいまは剥き出
しのように見える。
 夕闇がやってきた。西の方はまっ赤だ。まるで昔の
石灰ストーブの雲母の窓からのぞいたように。牡牛た 
ちが納屋の戸のまわりに立っている。農場の主人は死
を思い出させる色あせていく空を見上げる。 そして、
畑では玉蜀黍の骨がきょう最後の風にかすかにかさこ
そ鳴る。 そして、半月が南の空に出ている。
いま、納屋の窓の明かりが裸木の間から見える。


                            ※


さいごの詩の後半部分を読んでいると、聞く、見る、触れる、嗅ぐ、そしてもしかしたら味わう…までの感覚が刺激され、どこかただならない雰囲気をもつ、秋の夕暮れの一瞬へと、呼び込まれていく。風景の背後に隠された雉たちの殺戮が、この夕景をいっそう赤々と印象付けている。このくだりを小説の一部として読んでも、そこで立ち止まり、強烈な印象を刻まれるだろう。それにしても思うのだが、詩人というものは散文がちゃんと書けないと駄目なのだと。それも一応意味を伝える、用件を果たす、ただ普通の文章が、きちんと書けないと…と。


さてこの一文は中上さんの次のような句で、終わっています。

      雉子撃ちや火薬の匂ひと血の匂ひ             ズボン堂

      雉子撃ちの男をつつく家畜かな
                  
   
             

     

投稿者 ruri : 10:39 | コメント (2)

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2007年02月09日

月へ  原利代子

SOMETHING 4からもう一篇。原利代子さんの詩です。


                   月へ     原利代子

          信じないかもしれないけれど 月へ行ったことがある
          鉄棒に 片足をかけエイッと一回転すると
          月に届く秘密の場所があるのだ


          あちらでの住まいはダンボールづくりの茶室
          お湯も沸かせないところだけどー
          壁にくりぬいた丸窓から月の表面が見渡せる
          にじり口に脱いだわらんじに
          月のほこりがしずしずと積もっていくばかり
          月ってそういうところ


          わたしの住んでいた街が
          こんな風になってしまったことがある
          月の光景はあの時とそっくりなの
          見渡す限りがあんな風にー
          焼け跡の地面はいつまでも熱かった
          はいていたわらんじが焦げるので水をかけて冷やした
          歩いては水をかけ 歩いてはまた水をかけ
          あれから六十年
          地球はいつでもどこかで燃えていて
          わたしのわらんじは冷めないまま


          秘密の場所?
          いいえ 教えない
          普通の人はロケットで行けばいいのよ
          アポロ サーティーンなんて気取ってね


          また月に行くかって?
          そうねえ ここから眺める月は美しいけど
          月から眺めるのはとても淋しいの
          完璧な孤独ってわかる?
          わらんじがいつか冷めたらまた行くかも知れない
          その時 まだ鉄棒でエイッと出来るといいけどー


                        ※

この詩に心底、脱帽! こんなに愉しく怖い作品にはめったに出会えない。ファンタジーの手法を駆使して、ここまで痛烈な作品を書けるんですね。何の理屈も言わずに。最後の連を読むと、シーンとした気持ちになってしまう。(わらんじ)っていう表現もいいなあ。                      

投稿者 ruri : 21:07 | コメント (0)

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2007年02月07日

「水を作る女」 文 貞姫

鈴木ユリイカさん発行の「SOMETHING 4」を読了。力強い作品の数々を読む楽しみにしばらく浸った。いくつかの魅力的な詩の中で、今日は特に惹かれた文 貞姫さんの作品を写させていただきたいと思う。

                
                          水を作る女   文 貞姫

                   

                    娘よ、あちこちむやみに小便をするのはやめて

                    青い木の下に座って静かにしなさい

                    美しいお前の体の中の川水が暖かいリズムに乗って

                    土の中に染みる音に耳を傾けてごらん

                    その音に世界の草たちが生い茂って伸び

                    おまえが大地の母になって行く音を

                    
                    
                    時々、偏見のように頑強な岩に

                    小便をかけてやりたい時もあろうが

                    そんな時であるほど

                    祭祀を行うように静かにスカートをまくり

                    十五夜の見事なおまえの下半身を大地に軽くつけておやり

                    そうしてシュルシュルお前の体の中の川水が

                    暖かいリズムに乗って土の中に染みる時

                    初めてお前と大地がひとつの体になる音を聞いてごらん

                    青い生命が歓呼する音を聞いてごらん

                    私の大事な女たちよ

                                            (日本語訳  韓成禮)


                              ※

この詩をよむと、のびのびと心が解放される感じです。人の体は水の運搬人,水の管なのだと私も実感します。この感じは都会の暮らしではなかなか味わえませんけど。私は、乾いた鉢植えの木の根元に水をやるとき、地面が水を吸い込んでいく音が大好きです。
十五夜のような下半身…ていうのも新鮮!エッセイ「髪を洗う女」も同じ題の詩もどきどきする生命力を感じました。鮮やかな詩でした。                    

投稿者 ruri : 16:57 | コメント (0)

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2007年01月28日

草野信子詩集『セネガルの布』

草野信子さんの詩集『セネガルの布』から一つ詩を写させていただく。この詩集はその内容にぴったりの実におしゃれな装丁で、手にしても感覚的に心地よい。この表紙の、重ねられた二枚の色のコントラストの陰影のある美しさ、これはセネガルの布を模した色なのかしら?などと勝手に想ったりする…。私も一枚だけ持っているマリ共和国の、大地を思わせる色のテーブルクロスを思い出しながら。

                 

                セネガルの布
             
              なにに使おうかしら 
              と言ったら すかさず
              〈風呂敷です〉と答えたので 笑った

              
              テーブルクロスには 大きすぎて
              でも ハサミをいれたくはない
              藍染の木綿

              
              部屋いっぱいにひろげて
              アフリカの女たちの
              素朴な手仕事のはなしを聞いた

              
              セネガルから帰ってきたひとの土産
              
               
               〈人間であることがいやになったときは
                もの、になって
                部屋の隅にころがっているといい
                これは そのとき
                あなたを包むための、風呂敷〉

              
              夜の湖面をたたむように
              折りたたみながら
              うなずいた
              だから

              こんな夜は
              包まれて眠る
              セネガルの布に、ではなく
              きみの、 そのことばに

                    
                     ※

  詩人と、もうひとりのだれかとの、とてもすてきな心のゆきかいが、手に触れられそうな詩。
  私はこの詩人の、生への洞察力と、繊細な感受性、そして端正な居住まいをもつユーモアに
  心惹かれます。

             

        

投稿者 ruri : 22:32 | コメント (4)

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2007年01月20日

水橋晋詩集「悪い旅」より

昨年二月に急逝された水橋晋さんのお宅を、昨日初めて訪れ、晶子夫人のお話をゆっくり伺った。あかるい冬の陽射しに満たされたリヴィングルームには、生前の彼の画や詩が何枚も架けられ、写真が立てられ、まだそこに水橋さんの居られるような気配だった。その折にお願いして、夫人からいただいた彼の第一詩集『悪い旅』ー昭和55年沖積舎刊ー〈その前に17歳のとき出された自家版の詩集もあるが、それは別にして)から、特に印象に強い詩を一篇挙げさせていただきたいと思う。澄んだ水面を通して、ふつふつと湧き上がってくるようなエロチシズム〈生命への感応力)に触れ、後年の彼の作品にも流れ込むレトリックの源流をきく気がする。

                              ※

                        奔流
               

                 私がくぐり抜けてゆくところは
               
               花のおくにひろげられた夜のなからしい
               
               茂みのしたをはいってゆくだけで
               
               息づくけものたちの気配がしている
              
               ひかりのとどかない内側で
               
               こんなに暖かく泡だっているなんて
               
               風はいつもやさしく花片を撫ぜていたにちがいない
               
               用心ぶかく星をさえひからせないでいたにちがいない
               
               
               
               
                
                それだから私は降りる
               
               ひと足降りてまた降りてそしていっきにかけ降りる
               
               樹液をいっぱいみたして
                
               いっぽうの端からもういっぽうの暗い芯にむけて
               
               睡りからさらに遠くおしやるために ゆすぶるために
               
               そのとき百万のけものたちと小鳥たちがめざめる
               
               夜は大揺れに揺れうごく
               
               空にむかって花片をおしあげ
               
               樹液のなかで渦をまく
                
                 それで 太陽が 花のなかで 一千も
               
               破裂したかと思ったのに 鳥一羽 おっこちなかった

               
               
               
               ひかりが大地のうえをめぐりはじめるころ
               
               風はまもなくやむだろう
               
               海のように深みを甦らせ
               
               静けさを澱のようにしずめて
               
               全部が全部傷つくのかもしれない
               
               黒い奔流がそして体のなかに脈打つ
               
               私ははだしではいってゆき
               
               ふたたびはだしで帰ってくる

投稿者 ruri : 21:07 | コメント (0)

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2006年07月23日

To a Lost Whale

先日ハーバード大のCranstonさんからメールが入り、来学期のゼミで私の書いたクジラの詩を紹介したいとのこと。クランストンさんとは、10数年前に、私がケンブリッヂにしばらく滞在していた頃にお目にかかったのだが、それ以来ずっと私の詩の訳をしてくださっている。彼は日本文学〈和歌の翻訳と研究が中心)の教授であり、詩人である。「A Waka Anthology 1」によって日米友好基金日本文学翻訳賞を受賞している。

この詩は漂着死したクジラのイメージからのもので、1990年発表。いまさらちょっと恥ずかしいが、詩集には入れていないので,これを機会に訳詩と並べて紹介したい。

           
               To a Lost Whale 喪われたクジラへ                                               by Mizuno Ruriko
( translated by Edwin A .Cranston)


Sometimes I wonder
Aren't you out there even now
floating your sick body on the waves
pouring out your life
in a song of love
sung on and on?

 
 ときどき私は思う
 あなたは 今でもまだ
 病んだからだを 波に乗せ
 けんめいに 愛の歌を
 うたいつづけているのではないかと


O whale --
what crippled your sense of direction?
For all the world as if you feared to drown   taht day
you fled the sea toward us
(and I --it was then I met you......)
 
 

 クジラよ
 あなたの方向感覚を狂わせたのは何?
 まるで溺死を怖れるかのように あの日
 あなたは海を逃れてやってきた
    (そして私はあなたと出会った……)


I love you
Enameled as you were with stardust of the sea
with barnacles and shells
you fell away alone
enormous from the dark
I love the bigness that is you
Listen −− when I pressed my ear to your wet skin
I felt for the first time -- oh, yes --
with my own touch
the briny beating of the universe
between the dazzle of the sky and sand

 
私はあなたが好きだ
 海の星屑の 貝やフジツボにいろどられて
 闇からはぐれおちてきた
 あなたという大きさが好きだ
 ぬれたあなたの肌に耳を押しあてて 私ははじめて
 塩からい宇宙の鼓動に触れたのだもの
 まぶしい空と砂のあいだで


(Maybe, eons ago, I shared with you, aquatic ape that I was,
the frothy atmospehre of milk churned up by blustering storms.
Foster brother and sister, perhaps we fed at the same breast.
A fragment of green forest sunken in your brain, the shadow
of a waving polyp etched in gray on my retina.......But our lives
have been classified , and in the end our souls no doubt will
vanish like two separate drops of blood drying on the sand.
Without ever combining into one.)

  
  ( もしかして水生のサルである私は吹きすさ
    ぶ風に攪拌されて泡立った大気のミルクを太
    古のあなたと分けあったのだ 乳兄妹として。
    あなたの脳髄のすみには緑の森が沈んでいて
    私の網膜には灰色の珊瑚虫の影がゆれている。
    でも私たちの命は分類されて やがて魂は砂の
    上の二滴の血のように蒸発するのだろう。
    決して融合することのないままに。)


Yet the day will come
O whale
when between our two bleached skulls
sea spume driven by the wind
will blow again
and then we shall return
you and I to the one song sung
on this great earth


O whale far away

 
けれどクジラよ  いつか
 白くさらされた二つの頭骨の間を
 あの風のしぶきがまた吹きぬけていくとき
 私たちはこの大地の上で
 ただ一つの歌にもどれるだろうね
 遠いクジラよ
                     
 



                     

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2006年03月01日

「出入口」から

最近送られてきた「出入り口」NO1から,荒井隆明さんの詩を一つ書かせていただく。

                

               三輪車
            

             ゆっくり遊んで
             何が悪いのよ
             と
             口をとがらせて
             女の子は少しずつ向こうへ
             小さくなっていった
             小さくなって
             小さく
             なっ
             て
             ・
             になったところで
             やっと安心して
             もう
             戻らなくていいのだと
             また
             ゆっくりと
             小さくなって
             軋んだ音が少しはじけると
             葉と枝の間に
             消えてしまった
             風が吹き抜けて
             道は吹き飛ばされ
             もう
             何もかも
             なくなって
             何もかも
             忘れてしまって
             時々
             風に混じって
             軋む音が
             乾いた枝のように
             折れているだけだ

この、時間の形象化がおもしろく、読後に残される空間感覚にひかれた。この号にはほかにもおもしろい作品があった。

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2005年11月19日

近藤起久子詩集「レッスン」より

                波   
                                近藤起久子

            土手を走っていく
            七月の朝の電車は
            がらんとして      
            下から見ると
            どの窓にも
            ゼリーのような青空が
            ならんでいる


            土手は夏の草でぼうぼうだ


            波のように風がたち
            青い朝顔を
            いくつもゆらしていく


            裏から透かしてみれば
            今日だって懐かしい


            波の下から見る
            光の景色だ   
  

(これは近藤起久子さんの「レッスン」という詩集に入っていた詩。”裏から透かして”みる目があったら、ずいぶん生きられる領分が違うだろう。この2行で詩がふいにみずみずしく私の中に流れ込んでくる。私もきっと”懐かしい今日”をたったいまも生きているのに…と気がつく。)

               
             倍音

                                   
            桃の花が咲いた

            
            枝には
            雪のつもった枝が
            かさなっている


            水色の春の空

             
            その空に
            灰色の冬空が
            かさなっている


            笑ったこどもの顔に
            泣き顔がかさなっている


            それから
            日のあたる橋にかさなる
            死体だらけの橋


            ふりかさなったことばで
            指あみするように
            おばあさんが話している

            
            すこしずれたところは
            モアレみたいな
            網目模様になっている


(今日、私の中には、どのくらい、ふりつもったり,かさなったりしたものがあっただろうか。いつか言葉になりたいものたちのかすかな身じろぎ…。)          

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2005年10月22日

詩ひとつ

                     風景                前田ちよ子             

             僕等はこれから生まれるのか
             それとも死んだあとなのか
             僕等のいるこの闇が
             何なのかわからない

             
             さくらのはなの散る下で
             僕等は輪になって座り
             うすいももいろをしているはなびらを
             たぐり寄せては
             細い針と細い糸で綴り
             僕等の知らない
             あるいは忘れてしまった母のための
             厚い花輪を作り続ける

             
             切れ切れに はるか遠く
             僕等を呼ぶ声が聞こえたような気がして
             手を止め 眼をこらし
             耳を傾けたあと
             一層緻密になる闇

             
             ひざの上に積み上がって来る
             はなびらの重い綴りを繰り
             積み上がれば繰り

             
             積み上がれば繰り…
             僕等はこの繰り返す作業に埋没し
             やがて さくらのはなびらの散る音も
             あの声も…
             僕等には聞こえなくなる


これは「ペッパーランド」の創刊同人だった前田ちよ子さんの作品。今は詩をかくことから離れているけれど、彼女の詩には、時空を超えた生への神話的想像力が感じられて、読むたびに心惹かれるものがあった。その詩に触れるたびに、しんとした気持ちにさせられた。
「前田さん、また作品を読ませて欲しいよ!」 
この声がいつか彼女の耳に届くように!


                    
             
                 

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2005年09月24日

風のほとりで

                 風のほとりで


                風が吹く 風が吹く
                木の葉そよがせて
                風が吹く 風が吹く
                はてしない時の谷間を
                ひとすじの風の流れのほとりに生まれ
                人は今 この星でヒトの時代を過ごす


                風が吹く 風が吹く
                海を波立たせ
                風が吹く 風が吹く
                今日一日の哀しみ
                ゆるやかな風の流れのほとりで出会い
                人は夜 この星の仲間たちと眠る


                風が吹く 風が吹く
                空をこだまして
                風が吹く 風が吹く
                何億年の彼方へ
                絶え間ない風の流れのほとりを歩き
                人はまだ この星に残す言葉を知らない 

                           曲、堤政雄  詞、水野るり子  

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2005年09月20日

鯨売りの歌

                 鯨売りの歌


              クジラを探しに出かけたんだ
              岩ばかり続く荒れた海へ
              おれの船はもう役立たずで
              迷いクジラの一頭さえ見つからない
              海は汚れ 砂浜は靴跡と骨ばかりさ


              おれはやっと明けがた戻ってきた
              地獄の底から引き上げられたように
              おれの心はくたびれて
              なんだかもうあの空がからっぽに見える


              海は黙り 砂浜は靴跡と骨ばかりさ
              むかし仕留めたあの大クジラの声だけが
              あの世までおれの暗い海を騒がせるのだ


              せめておれは歌おう
              残されたクジラ売りの歌を
              おれは歌おう
              すばらしいあいつらのために
              消えてゆくあいつらへのはなむけの歌を


               ”クジラはいらないか
                とりたてのクジラはいらないか
                おいらの仕留めたこのクジラ
                うまいステーキ クジラのさしみ
                大きな骨で家が建つ
                小さな骨で傘を張る
                脂をしぼろう 火をつけよう
                石けんに 機械油に カーワックス
                ダイナマイトに ソーセージ
                肝油、靴べら、麻雀パイ
                ドッグフードから ボタンまで
                無駄ひとつないこのクジラ
                骨から すじから しっぽまで
                使い尽くそう このクジラ ”

              
              さあ、お立会い 
              まるごとのクジラ一頭買わないか
              お代はいらない 
              そのかわり 
              そこに立ってるあんたの魂と引きかえだ           
              それくらい 値打ちはあるよ このクジラ
              海とおんなじ 塩辛い
              血しぶき上げたクジラだよ
              悪魔のように赤い火燃やした クジラだよ
              声限り歌いつづけた クジラだよ
              夢全体と引きかえに
              おいらが仕留めたクジラだよ
                
              さあ、お立会い…お立会い  


 
(これは「滅びゆく動物たちへ」のコンサートで、遠藤トム也さんが朗唱した詩です。
 その朗誦が印象的で、今も耳に残っています。)
 

                     
                       

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2005年09月18日

キリンの星

ちょっとした買い物で横浜橋商店街まで夕方出かけたら、偶然お三の宮の大祭の日。
次々と御神輿が出てにぎやかだった。目の前でわっしょい、わっしょいやるのを、身をよ
けるようにして眺めるのは久しぶり。景気がよくて楽しい。今日は十五夜だ。ついでに
花屋さんでススキや吾亦紅やとリンドウなどを買ってきて、きぬかつぎ、枝豆、ゴマ豆
腐などならべ、バルコニーに出て中秋の名月に乾杯。

そういえばいつかこんな月の夜に、わたしは一頭のキリンと道行きしたような気がする
けれど…。

              
                        キリンの星

                   
                   キリンがある日やってきて
                   いっしょに歩いていこうといった
                   青いもやの立ちこめる
                   キリンの星のたそがれに

 
                   キリンはかなしい思い出を
                   心の底にかくしてた
                   二人で荒野を行くときは
                   月がランプをともしてた


                   キリンはとてもやさしくて
                   わたしに腕をかしてくれた
                   だれも人の見ていない
                   海辺のベンチで休むとき


                   キリンと旅をすることは
                   とてもたいへんなことだった
                   だけど二人は夢を見ながら
                   おんなじ背丈で歩いてた

 
                   キリンは何も話さなかった
                   わたしは何もたずねなかった
                   けれど二人は愛し合った
                   遠いはるかな星の上で
     
                            (作曲:淡海悟郎、 詞:水野るり子)
                     

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2005年09月17日

野良犬ピエール

            野良犬ピエール


      まるで厚いガラスの切り口みたいに青い
      まるで言葉をなくした心みたいに青い
      まるで空一面になびく花みたいに青い……
      

      …そんな青い夏の夜明けに
      まぬけな野良犬のピエールは
      声も立てずに死んでいった  
      風にそよぐ麦畑の片すみで


      空は 何にも言わずに 最後の星を消して
      風は白く 何にも言わずに 麦の穂をゆすり
      大地はめざめ 何にも言わずに けものたちをそっと抱く


      …そんな青い夏の夜明けに
      捨てられた野良犬のピエールは
      朝露にぬれたまま声も立てずに死んでいった
      すりきれた小さな首輪つけたまま

      
      ”そうしてその日空にゆれる向日葵の花の下で
      おまえは目をひらいたまま 
      初めてのみじかい夏と別れた”


(「一匹の犬よ。おまえがイヌでわたしがヒトだから おまえを殺したものを訴えることが
 できない。 おまえが輝く夏の夜明けにどのように無残に一つっきりの命を断ち切られ
 たかを。おまえの白い毛並みがどれほど農薬の吐しゃ物で汚れたかを。おまえのまだ
 幼い目がどんなに空しく明けそめた夏空の青さに向かってひらかれていたかを。
 おまえが犬でわたしがヒトだから、わたしはただ悲しむことしかできない。」……と前書き
 をつけて、この詞を発表してからどのくらいたったことだろう。でも忘れられない事件
 です。私と一匹の飼い犬(拾いイヌ)との間にほんとにあった今は悲しい思い出です。)


       

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2005年09月16日

カラスの河

                  カラスの河

              
               カラスが空を渡っていく
               こわれた古い歩道橋の上を
               カラスの河は鳴きながら
               たそがれの黒い七つの森をさがしている


               樹がたおれ 家がたおれ
               どこまでも空が焼けている
               でもだれも見るものがいない
               時間だけがのこされて
               大きなフラスコの底におちてゆく


               カラスが空を渡っていく
               こわれた黄色いガスタンクの上を
               カラスの河はうたいながら
               血のようにけむる夕焼けの空に沈んでいく


               樹がたおれ 家がたおれ
               どこまでも空が燃えている
               でもだれも見るものがいない
               時間だけがのこされて
               大きなフラスコの底に溜まってゆく


(これは1978年遠藤トム也さんとコラボレーションのような形で”滅びゆく動物たちに都会の片隅から唄う”というコンサートを新宿でひらいたのですが、そのときに書いた詩です。作曲は南さとし氏。現在パリに住んでいるトム也さんは、その後もこれを大事に唄っているとききます。)    

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2005年09月15日

サビという馬

                 サビという馬


              サビという馬のこと知ってるかい
              ある日岬にひとりっきりでやってきた
              暗い目をした三文詩人
              あいつといっしょにいた馬さ


              裏切った恋人や動物のこと
              たった三つの小さなうたを残しただけ
              ほかには何も残さなかった
              笛だけがあいつの持ちものだった


              サビという馬のこと知ってるかい
              岬の小屋で三文詩人の死ぬ日まで
              いっしょに暮らした馬のことさ
              あいつの笛をききながら


              サビという馬のこときかないかい
              風のなかで岬の小石に打たれていた
              激しいあいつの心を知っていた
              サビの行方を知らないかい


(これも堤政雄さんによる作曲。私はとても好きな曲だ。いまフランス在住のミュージシャン、遠藤トム也さんもこの歌をレパートリーにしていたが、三文詩人という言葉に違和感があるという。今は通じないかもしれない表現だが、あってもいいではないかと思う。ちょっと埃くさい感じがしてそこがいいと自画自賛。もっとも仏語に訳すとどうなるのだろう?)           
              

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2005年09月14日

カモメの島

               カモメの島

         
          カモメたちの飛ぶ島へいきたい
          真昼の海に浮かぶ
          緑の泡のような愛の島に

          
          カモメが虚空のなかをはばたき
          空と海でたくさんの風車がまわる
          私はあなたのなかで透明な海になり
          あなたは私を渡る虹のかなしみになる

          
          カモメが海の秘密をしゃべり
          砕かれた貝がらの浜辺がつづく
          私はあなたを呼ぶ海の混沌になり
          あなたは私を染める大きな夕焼けになる


          カモメたちの死ぬ島に行きたい
          暗い海に沈んだ
          花びらのような過去の島に

    
     (これははるか以前に書いた詞ですが、堤政雄さんの作曲でCDにも入って
     います。一部でけっこう愛唱された曲です。今読むとなんだかはずかしい
     けれど。)
    

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2005年06月03日

リョコウバトへ


リョコウバトへ

とだえることのない雲のように
大陸を渡りつづけた
あのリョコウバトの群れが
或る日 ふいに消えて…
宇宙はしーんと目を閉じた

「みんな どこへ いったの?」
ただ一羽 取り残された マーサの声が
いま こだまになって戻ってくる
「どこへ いったの みんな?」



この天体が きらきらと夢見た
たくさんの いのちたちが
砂時計の底へと落下していく…

…その音が
たえまなく足もとに響いてくる…
ヒトの住む
青いガラスの虚空




リョコウバト:その渡りによって、3日間も空を覆いつくしたという、北アメリカの
渡りバト。乱獲により、100年ほどであっけなく絶滅した。野生の一羽が最後に
撃たれたのは1907年9月23日。動物園でマーサが死んだのは1914年だった。

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2005年05月29日

そして 一匹も


そして 一匹も



クリスマスの日に
その島が発見されたとき
島はジネズミたちの天下だった

だがそれも
《クリスマス島》に
ヒトが住みつくまでのこと…



いまごろ
クリスマスジネズミたちは
歯ぎしりしていることだろう
「クリスマスってやつは不吉だよ」と…

かっては
天国だったあの島を
もう一つの天国から見下ろして




クリスマスジネズミ:1643年のクリスマスの日に発見された
クリスマス島に、その後200年以上にわたって、はびこっていた
トガリネズミの仲間。1900年に人が移り住んで、8年後にはもう
一匹もいなくなったという。その理由はいまも不明。

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2005年05月25日

プレイバック


プレイバック



空の果てには
永遠に回転するテープがあって
この世のどんな物音も
いっさいがっさい録られているとか…

(蛾の羽音も… 星の爆発も?)
だったら 私は 生き残ろう
永遠よりも ちょっと後まで

そして宇宙のテープを巻き戻そう
ひとり 静かに!

グアダルーペの 島の空へ
ひときわ高く響いたという
カラカラたちの最後の声…
あのタカたちの 命のこだまに
せめて この耳で触れるため




グアダルーペカラカラ:グアダルーペ島に住んでいたタカ。小動物や虫を餌
としていたが、死んだヤギの肉も好んだ。そのためヤギ殺しの犯人にされ、
1900年までに銃や毒薬で一掃された。大声の騒がしい鳥だったという。

投稿者 ruri : 11:39 | コメント (1) | トラックバック

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2005年05月21日

オーオーの空


オーオーの空



ハワイオーオーたちが
この世に残したもの…
それはうつくしいケープ?
それとも魂のぬけがら?

森を 花を 蜜をなくし
その黄と黒の羽毛をなくし
一枚のケープに織られ
ヒトに着られ 商われ…



つばさを失ったものたちが
どこかの星にたどりつこうと
今このときも
けんめいに はばたいている…
羽音のやまない
この私たちの空




ハワイオーオー:今世紀ハワイで絶滅した鳥。流行のケープ用に乱獲
され、羽毛は土産品となり、その棲む森も開発されて滅びた。
ケープの一枚が1万8千ポンドで売られたという。

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2005年05月20日

クアッガの星


クアッガの星



100年先の ある夏の日にも
だれか憶い出すかしら?

クーアッ クーアッと いななきながら
地平線を 雲母のようにあゆんでる
クアッガの まぶしい群れのことじゃなく

二頭立ての馬車を曳いて
ハイドパークを駆け抜ける
お利口さんの クアッガたちのことじゃなく

100年前の ある夏の日に
檻の中から ひとりさびしく旅立った
しんがりの おばあさんクアッガのことでもなく

しましま頭巾の クアッガたちをのせ
銀河系を回っていた 草原の星
太古からきた たった一つの星のことを




クアッガ:前半分だけ縞模様のウマ属の動物。狩りたてられて、
19世紀に絶滅した。その名前はかん高いなきごえからきている。

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2005年05月19日

ステラーカイギュウへ


ステラーカイギュウへ



かつて北極海に遊んだ
草食の人魚たちよ

その消息が絶えて
二世紀は とっくにたったけど…
ゆうべ 夢の深い水底で
海草を食んでいた あの後姿は
たしか君たちじゃなかった?

(もし あれが正夢ならば!)
君たちは 海の底へと 銛を逃れ
ながーい ながーい 夕餉のときを
のんびり 楽しんでいるんだね

ごわごわのひげ
しわだらけの皮膚をそのままに
「もう人魚のふりなんてまっぴらさ」って




ステラーカイギュウ:1741年、博物学者ステラーによってベーリング海で
発見されたジュゴンの仲間。10メートルほどにもなるが、おとなしい海牛で、
食料となり、絶滅したという。1768年に最後の1頭が殺された記録がある。

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2005年05月17日

青レイヨウ


青レイヨウ

青レイヨウが
まだ地上にいた頃のこと…

アフリカの子どもたちは
夢の曲がり角なんかで
よくかれらと出くわして
その青みがかったビロードの毛並みを
そっと撫でてみたにちがいない

でも今は
子どもたちもそんな夢は見ない
記憶のなかに ぼんやり干された
灰色の毛皮に
おとなたちが ときどき
風を当てているだけだ



  青レイヨウ:青みがかった灰色の毛をもつウシ科の動物。死ぬとその毛並み
は灰色に変わった。美しい上、食用にもなり、17世紀末からのオランダ移民
の銃により、アフリカの哺乳類として最初に絶滅した。

投稿者 ruri : 12:34 | コメント (1) | トラックバック

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2005年05月13日

悪い夢


悪い夢

オオウミガラス50羽が
わたしを囲んでこういった

きいてくれ (きいてくれ)
ぼくらの 悲しいおはなしを

なぜぼくら (なぜぼくら)
北の島から さらわれて

なぜぼくら (なぜぼくら)
死んでも こうして立ってるの?

50羽の剥製たちの 眼のおくで
それぞれの海が逆巻いて

わたし…塩辛い夢のまんなかに
150年 立ったまま



オオウミガラス:水中は自由に泳ぐことができたが、飛べない鳥だった。
はじめはこの鳥のことをペンギンと呼んだ。
有史以前からの何世紀にも及ぶ殺りくの末、
辛うじて孤島に生き残った50羽も標本用に狩り尽くされて、
150年前に絶滅した。

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2005年05月09日

二羽


二羽

ホオダレムクドリの夫婦
今日も おそろいで 食事の支度

夫が自前のノミで コツ コツ コツ
たくみに 幹に穴をあける
妻が自前のピンセットで
すばやく 虫を引っぱり出す
さあ 楽しい食事の始まりだ…

鋭いクチバシと 器用なクチバシ
ふたりで1対の ナイフとフォーク
だから孤食なんてとても無理
毎日 仲良く食べようね
と、共白髪まで 暮らしたのに!

ああ、もし森が消えてなかったら
ふたりのつつましい食卓が
いつまでも そこにあったなら…



(ホオダレムクドリ:ニュージーランドの森にいた。
オスが短いクチバシで木に穴をあけ、メスが長い曲がったクチバシで
好物の地虫をつまみ出すチームワークで餌を取った。
森林が切り開かれ、1907年頃に姿を消した)

投稿者 ruri : 11:44 | コメント (0) | トラックバック

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2005年05月05日

オーロックスの頁


オーロックスの頁

この地上が 深い森に覆われ
その中を オーロックスの群れが
移動する丘のように 駆けていたころ
世界はやっと 神話の始まりだったのかしら

貴族たちが 巨大なその角のジョッキに
夜ごと 泡立つ酒を満たし
ハンターたちが 密猟を楽しんでいたころ
世界はまだ 神話のつづきだったのかしら

やがて 森は失せ
あの不敵な野牛たちは滅び去った
うつろな盃と 苦い酔いを遺して
破りとられた オーロックスの長いページよ
世界は それ以来 落丁のまま…だ



(オーロックスは長い角をもつ、大きな野牛。飼い牛の祖先。
ユニコーン伝説のもとになり、旧約聖書にも登場する。
  角はジョッキとして珍重され、その肉は食べられた。
1627年に最後の1頭が死んだ。)
 

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2005年05月03日

バライロガモに


バライロガモに

ワニやトラたちの群れる
ガンジスのほとりに
バライロガモよ
君は ひっそり ひとりずまい
空一面の 夕焼けでも眺めてたのか

今は流行らない
孤独な詩人みたいに
けれど 湿原は拓かれ
君たちの魂は どこかへ去った
風のような鳴き声と
うつくしい球形をした卵と
そこに秘められた
遺伝子のながい夢といっしょに

…そうして
町の市場にならんだ君たちの肉は
どんな味がしたのだろう
バラ色の夢が
飛び去ったあとで



(バライロガモはインドの湿原に、四月の繁殖期以外常に一羽で
 棲んでいた、頭部がバラ色の静かな美しい鳥。湿原が開墾され、
 今世紀前半に絶滅した。)

投稿者 ruri : 16:25 | コメント (0) | トラックバック

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2005年05月01日

はがきの詩画集から THE ONEーWAY TICKET 


THE ONE-WAY TICKET(片道切符)

遊星の上のレストランでは
鳥料理が流行っています
<滅びた生きもののお味はいかが?>
つかのまの雨の晴れ間に
虹を渡って
タイムトリップした人びとが
傘のしずくを切りながら
ドードー鳥をほうばっています

空の奥ではゴロゴロと放電がつづき
橋のたもとはうすれています……が
だあれも席を離れません
「次のお皿はなんだろう?」



    註( ドードーとはうすのろの意味。巨大化した鳩の種族で、飛べない鳥。
16世紀に発見されてから100年あまりで絶滅した)

「ドードーを知っていますか(忘れられた動物たち)」という絵本がベネッセから出ています。
画はショーン・ライス,文はポール・ライスとピーター・メイル。主としてこの2〜300年の間に
人間によって絶滅へと追いやられた動物たちが紹介されています。とてもうつくしい本です。
私は「夢を見てるのはだれ?」という題のシリーズで何年か前に、イラストと共に、
はがき通信を出したことがあります。そのなかからいくつか載せていきたいと思います。
絶滅の過程を追ってみると、それは現代にそのままつながっていて、その流れの音は
いっそう大きくなっているのでは…と思いながら。

投稿者 ruri : 15:02 | コメント (2) | トラックバック