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2009年12月22日

草地の時間(村野美優詩集)

               寝床のふね                  
                                        村野美優

       このあいだまで
       赤土色のふとん袋を
       ねぐらにしていたうさぎたちが
      
    
       いつのまにかここに移動してきて
       しずかな夜の海を
       一緒に渡るようになった

     
       ひたひた
       へやの扉をあけると
       畳まれたふとんの上で
       しずかに船出を待っている


       もやい綱を解くように
       ふとんをひろげて横になる
       わたしの背骨は竜骨になる
       甲板にはうさぎが二匹
       へさきには時の船頭が乗る


       ひたひた
       へやの扉を越えて
       いきものたちの寝息のなかを
       今日も寝床のふねが行く


       あたらしい草たちが
       聞き耳を立て
       伸びていく


村野さんがうさぎ二匹と暮らしていることは、聞いていたので、彼女の日々の暮らしの一場面が
目に浮かんでくる。もっともうさぎと暮らしていたからって、こんな広々とした?たのしい詩が生まれる
わけじゃないですよね。この詩集全体から、村野さんの原感覚とも言うべき、この世界への感受の仕
方が伝わってきます。身辺のどんな存在とも(植物や動物たち、そして空間や時間とも)溶け合い、
一緒になれる共生感覚が、自然に溢れ出していて、詩人てこういう人のことをいうのでは…と、頁を
ひらくたび思ってしまう、そんな詩集でした。まさに草地の時間を感じました。もう一つ載せます。

              

                 藍色のうさぎ  

           白いうさぎと

           茶色いうさぎが

           やってきた晩

           わたしはうさぎの夢を見た


          
           夢のなかにはうさぎが三匹いた

           白いうさぎと

           茶色いうさぎと

           藍色のうさぎ


          
          

           藍色のうさぎは

           わたしの胸の穴の深みに

           長いこと棲んでいたので

           すっかりかたちをなくしていたが

           

           白いうさぎのあたまを撫でると

           藍色のうさぎもよろこんで目を細めた

           茶色いうさぎが葉っぱを食べると

           藍色のうさぎの腹も満たされた


           二匹のうさぎが寄り添って眠ると

           藍色のうさぎもうっとりとなった


           藍色のうさぎは

           ときどき胸の穴から抜けだし

           どこかへ行こうとした

           だが自分がどこへ行きたいのか

           わからないようだった


           ただ夢のなかで藍色に広がり

           ぼんやりと漂うだけだった


この詩は私の一番好きな作品でした。このような具体的なやさしい表現で、人が生きていることの
あてどなさや、存在感、そして愛の感情やその意味を表現されたことに打たれます。  

             


           
                    

            

           
 

投稿者 ruri : 11:20 | コメント (0)

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2009年09月22日

サーラの木があった

以倉紘平さんの詩集『フィリップ・マーロウの拳銃』のなかから、好きな詩をひとつ載せさせていただきたい。

            サーラの木があった

駅に着くと
サーラの木があった
思い出せるのはただそれだけである


そこからいかなる言葉も紡がれようがなかった
こころみるとすべて作りごとのような気がしてくるのである


〈駅〉とは何だろうそれはこの世のことではあるまいか
〈着く〉とは何だろうそれは遠い所から
この世に生まれたことを意味しているのではあるまいか
サーラには匂いと色があったはずだ


甘い花のかおり
風がにおいを運んできたのだろう
(風はひろびろとした野の方に過ぎさったのか
びっしりとつまった街の家並みのほうへ吹きすぎたのか)
そう書くともう汚れてしまう感じなのだ
たくさんの小さな花
朝日に輝いていたのか夕映えにきらめいていたのか
(乗客の中に行商のおばさんが
少女が乗っていたのかどうか
だいいち駅名や時刻表があったのかどうか)
そんなことを考えるともう嘘のような気がしてくるのである


だから
なにか豊かなものがあったとしかいいようがない
白い花の色とかおり
すみやかに時が流れ
あっという間だった
この世のことはもうそれ以外に
ぼくはなにも思い出せないのである

   ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 この詩集は装丁にも粋な題名にも、心ひかれた。 サーラの木とは、あの沙羅双樹の沙羅の木のこと。お釈迦さまが亡くなられたとき、いっせいに花開き、降り注ぎ、その死を悲しんだと言われる木である。朝開き夕べにはしぼむという、その一日花は夏椿とも呼ばれてる白い美しい花である。

 私は、以倉さんの詩にはいつも深いところでの心の共振のようなものを覚えている。「人が生きている…その根源にある大きな感情に触れることができ、さらにそのかなたへと思いを運んでくれるような…」と、私は手紙に書いた気がする。そして、そのかなたとは、ふしぎに懐かしい場所なのだ。

 彼のこの前の詩集『プシュバ・ブリシュティ』のなかにもサーラの木のことが出てくる。
その”〈サーラ〉という語”という詩のなかから一部を引用したい。

 (きれはししか思い出せない夢がある。気分情緒しか残っ
 ていない夢もある。たしかに見た夢でありながら、わたしの
 意識にひとたびものぼることなく忘れられた夢は、誰に
 所属しているのだろう。そのときの夢はどこを旅してい
 るのだろう。ことばの及ばぬ内面世界のはるかな時空だ
 ろうか。それは日常の世界を越えて旅するもう一人の私
 である。意識の上に突如としてのぼってくることばは、
 未知の領土を 旅するもう一人の私からの通信である。/……
 宇宙樹サーラは、 その枝葉のやみに青い地球を抱えている。/
 人間はサーラの花散る宇宙 をよぎる旅人である)

  
              


                   
 
             

投稿者 ruri : 09:17 | コメント (2)

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2009年08月23日

影の鳥(Shadow Birds)

    影の鳥
                          水野るり子

鳥は死んでから 
だんだんやせていくのです


  町には窓がたくさんあって
  夜になるとどの窓のおくにも
  橙色の月がのぼります


  でもお皿の上の暗がりには
  やせた鳥たちが何羽もかくれています


  鳥たちは
  お皿の上にほそい片足を置いて
  大きな影法師になって
  月のない空へ舞い上っていくのです


死んだ鳥たちは
雨の降りしきる空で
びっしょりぬれた卵を
いくつもいくつも生むのです


そうして冷たい片足を伸ばして
沈んでいく月をのぞくと
深いところには
人間がいて
窓のなかで
ちぢんださびしい木を切っています

         Shadow Birds
        (Translated by Edwin A.Cranston)

Birds after dying

gradually grow thin


   In the town there are many windous

Deep in every one at night

an orange moon rises

But in the dark on the platter

a flock of thin birds hids


  Each bird stands

 with one thin leg on the platter

  becomes a large, black shadow

 leaps toward a moonless sky


The dead birds

in the rain-gusting sky

lay dripping-wet eggs

clutch after clutch


  And each stretching out one cold leg

  they peer at the sinking moon

  In a deep place

  are humans

 inside windows

  cutting shrunken, lonely trees

""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""

「影の鳥」 は初期の作品です。一枚の画を描くような気持ちで自分のなかの
    イメージを詩にしました。詩集『ヘンゼルとグレーテルの島』 に入れました。

  

投稿者 ruri : 10:58 | コメント (0)

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2009年08月16日

鳥(Bird)

        鳥
                                水野るり子

       空のまんなかで
       
       凍死するのがいる

      
       雹にうたれて

       胴体だけで

       墜ちてくるのがいる


       ふいに

       空で溺れかける

       瞬間の鳥が

       恐怖の足でつかむ

       はじめての空


       その空の深度へ

       首はすでに

       首だけのスピードで

       落ちはじめている


          Bird 
                     
                                      E.A.Cranston訳

There’s one that freezes to death
in midair


There’s one that’s a headless body
falling to death
beaten by hail


Caught by surprise
drowning in the sky
instantly the bird
clutches with the feet of fear
its first sky

Out of the depth of that sky
its head has already begun
at the speed of head alone
to fall


  ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
    これは第一詩集「動物図鑑」に載せた作品です。
    五月頃、はげしい雹に撃たれて落ちる鳥がいるという事をきいて書いた作品です。
    


  

投稿者 ruri : 08:53 | コメント (0)

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2009年07月31日

オーロックスの頁・(The Aurochs Page)

            オーロックスの頁
                                         水野るり子

      この地上が 深い森に覆われ

      その中を オーロックスの群れが

      移動する丘のように 駆けていたころ

      世界はやっと 神話のはじまりだったのか

     

      貴族達が 巨大なその角のジョッキに

      夜ごと 泡立つ酒を満たし

      ハンターたちが 密猟を楽しんでいたころ

      世界はまだ 神話のつづきだったのか


      やがて 森は失せ

      あの不敵な野牛たちは滅びていった

      うつろな杯と 苦い酔いを遺して
      
      破り取られた オーロックスの長いページよ

      世界は それ以来 落丁のままだ 

        ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

(オーロックスは長い角をもつ大きな野牛であり、飼牛の祖先だった。ユニコーン伝説のもとになり
旧約聖書にも登場する。角はジョッキとして珍重され、肉は食べられ、1627年に最後の1頭が死んだ)

       


 The Aurochs page
                              ( Edwin A.Cranston訳)

The earth was covered in dense forest

through it roamed herds of aurochs

like moving hills   maybe the world at last

was entering the time of myth 


When nobles every night filled giant horns

to overflowing with the frothy mead

and hunters took their sport in poarching game

maybe the world was still in myth’s continuum


Finally the forest vanished

those intrepid wild oxen followed into oblivion

leaving hollow drinking cups    and a bitter intoxication

the long aurochs page    torn out    the world’s book
  
has ever since been incomplete


      ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

(この作品は以前「夢を見てるのはだれ?」という葉書詩のシリーズに発表したものです。一部訂正しました。)

投稿者 ruri : 10:55 | コメント (0)

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2009年07月29日

灯台(Lighthouse)

                     灯台        
                         
                 水野るり子

                 真夜中の空に
                 雪が降りつづいています
  

                 鳥は もう一羽の
                 相似形の鳥への
                 ひたすらな記憶によって
                 風の圏外へ飛び去り

                 
                 魚類は凍てついたまま
                 聴覚の外を回遊しています


                  〈カタツムリの螺旋は暗く閉され〉


                 私は内側に倒れたローソクを
                 ともすことができません


                 そうして
                 残されたこの島の位置は
                 今 闇に侵蝕されていきます

                                     『ヘンゼルとグレーテルの島』より


                 Lighthouse        ( Edwin A・Cranston訳)


        Snow falls steadily in the midnight sky

         
        A bird 
        impelled by memory of another bird
        shaped like it
        flies away
        out of the wind.
     
       
        Fish
        still frozen
        circle beyond earshot

              

            〈The snail’s spiral is dark,closed in〉

        I cannot light the candle
        that fell over,inward


        And now
        the location of this island still remaining
        is eaten away by the dark  


         
 
           

投稿者 ruri : 10:31 | コメント (0)

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2009年06月29日

「月の魚」と英訳

先日紹介させていただいたEdwin A Cranston著「The Secret Island and The Enticing Flame」から、幾篇かの自作品と、Cranstonさんによる訳を載せていきたいと思います。

           月の魚                     水野るり子

   魚よ
   おまえは涙をながしているね
   アンダルシアの原野をゆく
   一頭のロバの背中に
   下弦の月がかかるとき…
   永遠のある一日からひきあげられ
   遠く運ばれていく魚よ
   おまえは乾いていく大地への
   一滴の供物なのか

       Moon Fish (translated by) Edwin A Cranston
    
     o fish,oh
     you shedding tears over
     Andalucia carried
     donkey-back up wild fields
     a waning moon
     drawn bowstring down
     up from one day in eternity
     far,far o fish,carried away:
     you are like one drop of offering
     for the drying earth


   魚よ
   おまえの魂はどこへいくの
   透き通った空の大きな壷のなかで
   月がだんだん欠けてゆき
   おまえが運ばれる土の器から
   海はひとしずくずつ蒸発していく
   すると 魚よ
   おまえの小さなからだは
   月のさみしいかたちに似て
   弓なりに空へはねる


     o fish, oh
     your soul-globe’s going
     in the great transparent
     bowl of sky the moon
     breaks piece by piece
     and the sea dries away
     drop by drop from the earthenware vessel
     where you’re carried, o
     fish,oh
     your little body
     copying the lonely shape of the moon,
     leaps bowlike toward the s
ky.


  魚よ 
  何万光年かなたの星にまで
  その水音はとどくだろう
  おまえはそのころ
  憶い出のように
  月のない空にかかって
  うしなわれたこの水の星を
  見下ろしているね


      that sound of water
stars will listen to
ten thound years from now:
Then you are
hanging in a moonless sky
like a memory
looking down on a lost
waterless planet.



これは1990年頃の作品です。詩集には入れていません。英訳されてから1,2箇所の小さな訂正をしました。


  

     
   
  
  

   


 
  

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2008年12月07日

斉藤なつみ詩集「私のいた場所」から

最近出会った好きな詩集です。
それは斉藤なつみさんの「私のいた場所」という詩集です。そこから2篇を載せさせていただきます。


            馬               斉藤なつみ

       土壁造りの馬小屋の
       四角くくりぬいた窓から
       馬は いつも顔を出していた

       窓の奥は暗く
       そこから深い闇が始まるようで
       うっそうと木々の繁る道からは
       何も見えなかった

       焚き付けの杉葉を拾いに
       父と山へ歩いていった日にも
       馬は窓から顔を出していた

       その家で主の葬儀のあった日にも
       馬は顔を出していた
       顔を出して
       弔いに集まった人びとの頭上遠くの
       空を眺めやっていた

       馬には顔しかないのだった
       田を耕し
       重い荷を負った体は
       馬小屋の闇にとけて
       きっと もうないのだった

       空にはいつも 
       碧い風が吹いていたから
       顔だけが
       忘れてしまった風景や
       まだ来ない風景に
       まなざしを
       遠く
       投げているのだった

            

       
       いつか 家路をたどるわたしの前にきれいな夕
       焼けの空が広がっていた
       けれども あれは本当に夕焼けだったのだろ
       うか
       赤々と林の向こうに沈んでいく夕日の色も
       刻々と闇にのまれていく林の木々も 本当は
       風のように吹きすぎていくだけの時間だった
       のではないか
       眩しい朱の色で 西の空に刷かれた時間
       もうここにはない


       ならば 遠いむかし 人と肩を並べて見上げ
       たトウカエデの木も 公園の片隅で枝をのば
       し 木漏れ日を揺らしていた時間だったに違
       いない
       貧しくみすぼらしい夢しか持たない私たちの
       頭上にも 果てしなく広がる空のあることを
       指し示し しずかに葉をそよがせていた
       けれども そのそよぎあう葉も 光も そし
       て 手にふれた幹の温かさも 過ぎていく時
       間のことだったのだ
       〈木〉と名付けられ 樹木のかたちをして
       私たちの一日に届けられた


       なつかしいふるさとの町の夜道を照らしてい
       た古い街路灯も 時間のことだったのだ
       スズランの白い花のかたちに 小さく灯をと
       もしていた 私にはそう見えた
       けれども 足元をやさしく照らしていたその
       あかりも 路上に映った母の影も 幼い私の
       影も 遠くへ過ぎていく時間のことだったの
       だ
       耳にのこる母の下駄の音さえも 辺りをつつ
       む夜気の匂いさえも


       いくつもの美しいかたちを私に現しながら
       遥かへと 流れ去っていった時間
       永劫再びめぐり逅うことも叶わない
       そして…
       過ぎた日の思い出を さびしくなぞっている
       この私もまた 過ぎて戻らない時間のことな
       のだろう


       つかのまの人のかたちに見えて 滔々と宇宙
       の闇に流れつづける時のなかへと 還ってい
       くだけの

     ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

存在とは何か?…時間や空間のかなたから、形にならないある本質的なイメージを、形象化して伝えてくれる…そんな詩法に触れて、存在のもつ深い時間そのものをかいま見ることができた…そんないい詩集でした。
「馬」という作品では(馬には顔しかないのだった…)ではじまる5連目がこの詩作品全体を照らす光のように啓示的でしたし、「時」という作品の比喩も思いがけない新鮮さで心を打ちました。斉藤さん、いい詩集を有難う!という気持ちで読ませていただきました。
      
  

                  
         

              

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2008年11月03日

弓田弓子詩集「灰色の犬」から

横浜詩人会創立50周年を記念するネプチューンシリーズが発行中だが、最近送られてきた弓田弓子さんの『灰色の犬』は傑作な詩集だった。寸鉄人を刺す…ではないが、寸鉄日常を穿つ!といいたい詩が多く、とてもおもしろい詩集だった。詩人の眼で日々を生きるということは、こういうことかもしれない。私はなんとおろそかに日々を送っていることか。


               ボール投げ

             「吉田橋」を経て
             「関内」から
             「馬車道」へ
             せかせか
             辿っていると
             背中にばーんと
             ボールがあたり
             急くな、と
             呼び止められた
             思わず振り返ったが
             知り合いは 
             見当たらない
             ビルディングの
             凹凸の後ろに
             赤赤と陽が
             落ちて行くところだった
             わたしは
             眼の中を赤く染めて
             見えないボールを拾い
             緩やかに
             投げ返した


            
           日が沈みかけている 

          炊飯器の炊飯を指先で押しそれだけの力で
          目がくらんだ 日が沈みかけているので地
          が傾いたのかもしれない あっけない  指
          先で 米が 炊けてしまうのだから あっけ
          ない


          いつからこんなに簡単になったのか くら
          む頭の中で炊飯器の型が変化していく

 
          どうしたのか まるで別世界にいるようだ
          性別 生年月日を声に出して暗唱してみる


          改良されていく炊飯器をじゅんじゅんに手
          に入れて米を手に入れて炊いてきたが こ
          れだけのことだったのか 米をこんなふう
          に簡単に炊いて一生が終わってしまうもの
          なのか


          つまらなくなってきた 改良されていく生
          涯なんて あっさり炊飯器を買ってしまい
          買えてしまう 便利な炊飯器を買うために
          何をしてきたのだろう ただただ手に入れ
          てきたのだ


          炊飯器の研究をする人 デザインする人
          製造する人がいて運ぶ人がいて店に並べる
          人がいて 売る人がいて 買う人がここに
          いて 米が炊きあがるのを待つ人がここに
          いて


          なにもかも厭になってきて 炊飯器に吸い
          こまれているのに 身をまかせているのが
          厭になってきて このまま生が尽きていく
          のが見えているのに逃げることもしないで
          いるのが


          厭になってきたが 米が炊きあがるいいに
          おいがしてくる 


      
        ””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

最初の詩の、さりげない、まぶしい切り口。それから二番目の詩の批評の痛さ。(おおげさではなく、身に染みる。)
そのほかにもたくさんおもしろい詩が載っていて困ります。


        
    

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2008年10月29日

雲の映る道 高階杞一詩集

高階杞一さんの新詩集『雲の映る道』には好きな詩がたくさんあった。以下はその中の作品からです。

                   いっしょだよ

               かわいがっていたのに
               ぼくが先に
               死んでしまう
               犬はぼくをさがして さがして
               でも
               いくらさがしても
               ぼくが見つからないので
               昼の光の中で
               キュイーンと悲しげな鳴き声をあげる
               その声が
               死んだぼくにも届く
               
               ぼくは犬を呼ぶ
               こっちだよ こっちへおいで 
               犬はその声に気づく
               ぴたっと動きを止めて
               耳を立て
               しっぽをちぎれんばかりに振って
               一目散にぼくのところへやってくる
               ずいぶん痩せたね
               何も食べてなかったの?
               キュイーンとうなずく
               ぼくは骨をあげる
               犬はぼくの骨をたべる

               おいしかった?
               クー
               これからずっといっしょだよ

         ”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

哀しい詩で、とくに犬の好きな私なので身に染みました。骨に関しては、もうひとつ、とても忘れられないような「春と骨」という詩があるのですが、あえてここには入れませんでした。いつか読んでください。子どもさんをなくされた詩人の経験の深さが、短い詩の中から切なく伝わってきて、前の詩集『早く家へ帰りたい』をもう一度読み直したりしました。


                   新世界 

               リンゴの皮をむくように
               地球をてのひらに乗せ
               神さまは
               くるくるっとむいていく
               垂れ下がった皮には
               ビルや橋や木々があり
               そこに無数の人がぶらさがっている
               犬も羊も牛も
               みんな
               もうとっくに落ちていったのに
               人だけがまだ
               必死にしがみついている
               たった何万年かの薄っぺらな皮
               それをゴミ箱に捨て
               神さまは待つ
               むかれた後の大地から
               また新しいいのちが芽生え
               みどりの中から鳥が空へ飛び立つときを
               そこに僕はいないけど
               人は誰もいないけど

                
            ””””””””””””””””””””””””””””””””””””

新世界っていうのは、人間のいない世界なんだと気がつきました。
まだ神さまのゴミ箱の底にうごめいている一人として。
  

        

                                           


  
   
                

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2008年10月22日

詩 夕餉の食卓

今日は佐藤真里子さんから送られてきた詩を載せます。2008年10月10日に陸奥新報に載ったものです。

              夕餉の支度             
                                  佐藤真里子

         西の窓が薄赤く染まるころ
         (行こうよ…)と
         背後から近づいてくる闇に
         負けないように
         わざと音を響かせて
         野菜を切る
         同じ生きものの生臭さで
         包丁に力をこめて
         魚をさばく
         沸騰する鍋のふたを取ると
         いきなり吹きかかる湯気が
         何もかもを
         眠りの夢に変えそうで
         思わず開ける窓
         外は沈む陽の色になり
         虫たちの奏でるヴァイオリンは
         高く低く余韻を引き
         (行こうよ…)と
         すすきの穂のたてがみをゆらして
         幻のけものたちが駆けていく
         その先には
         いつも気配だけで背中合わせの国
         夕暮のさびしさの訳を
         知っている国がある
         毎日、いまごろ
         その国行きの電車が停まる駅が
         かすかに見える
         (行こうよ…)と
         宙から下りてくるレール
         宙へと消えるレール
         今日も乗りそびれて
         電車が走り去る音だけを聞く
         魚の美味しいスープは
         煮えたけれど

             ””””””””””””””””””””””””””””””””””     

いい詩だなあと思った。日常の当たり前の行為と、それをめぐる時間が、想像力によって、一気に広がり、深まり、宇宙性を取りもどす。詩人は言葉によって時間の質を変貌させてしまうのだ。ファンタジー的な手法がうまく生かされていて、(行こうよ…)いう呼びかけのくりかえしが、時の経過をリズミカルに伝える。銀河鉄道999のイメージも浮かぶ。秋の夕ぐれのさびしさと、憧れに似た想いが、ロマンチックな心情を伝えてくる。そして最後に今夜の美味しい食事タイムを連想させるのもさすが…。

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2008年07月12日

短い詩二つ 

前田ちよ子さんの作品を何回か載せてきましたが、さいごに二つ短い詩を
載せさせていただきます。このブログがどなたかの目に触れ、そのユニー
クな詩世界の片鱗でも心に残していただければ、彼女もどんなにか喜ばれ
ることでしょう。

                 蜆貝


            気温が下がり
            徐々に流れの速さを落して行く河口で
            僕達は聴覚の夜に重くなる
            時に降る雨音
            時に帰る鳥の笛
            時に風の低いうなり


             小さすぎた僕等
             一生しゃべる事のない紫の舌


           二枚の固く黒い耳介の中で
           僕達は作る事を忘れた音の世界に住んでいる

            
           ほのかに舌の先にランプを点す
           何気ない平(たいら)かな砂の底の夜


             埋蔵された何千何万の言語
             ひとつひとつの僕等 

                              詩集「星とスプーン」より

                
               月と野ざらし


             まあるく
             黄色い月が浮んで
             虫達はため息ばかりつく。
             野ざらしが二つ
             酒をくみかわして
             かわるがわる月を見上げる。
                
               ところで……おん
               どうして死んだ
               ……わかん……ねえ
               な、あ、ん、に、も、な……あーん
               な、あ

             風が真青になれば
             草はきしんで枯れもする。
             あばら骨もひどく痛いもの。
             青はそれほどとっぷり深い。
             酒もしっとり
             二つの野ざらしはもう上を見つめるばかり。
             コンパスの月は定められた。     

                                詩集「青」 (1969)より

              ※      ※      ※

この最後の詩は彼女が20歳になったのを記念にと、ご自分でガリ版で
手作りした「青」という小さな詩集からです。
彼女の本質にはこのようにユーモアと飄逸さを感じさせるものがありました。
それは亡くなる直前まで届いたいくつかのメールにも一貫していました。


           
                     
            
               
                

    

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2008年07月08日

詩集「昆虫家族」(1988)ー七月堂刊ーより

            土の器

                                  前田ちよ子
  地が造られ、その終りに余った土で造られた器が地の
  一端に据えられた。 その器の底に、いつからかこどもが
  住まっている。

  器に続く地では日々色々なことが起り、その中をかす
  かな死臭を漂わせた大きな生きものが、ひたひたと身を
  低くして歩みやってくる。やがて器にたどり着くと縁で
  立ち止まることもなく、器の内側の丸味のある闇を深々
  と下りて行く。

  大きなものは器の底で走り寄るひとりのこどもの腕に
  抱き取られると、ゆっくりと体を横たえて、その頭(かしら)をこ
  どものひざの上に載せる。角ある頭(かしら),荒い毛の立ち並ぶ
  背を撫でるこどもの手のひらの温もりに、生きていた大
  きなものはうっとりと死に始め、閉じたまぶたの傾いた
  端から涙のように自分の魂を生み終える。

  土の器のどこからか、たくさんのこども達がめいめい
  手に合った椀を持って集まって来る。円座して、魂の残
  していった血と肉とを少しずつ分け合っている。ひとり
  が ほら見てごらん とほほえんで言うと、はるかこど
  も達の暗い頭上を、一個の魂がほのかに輝いて昇って行
  くところだった。

                  天秤皿
                                     前田ちよ子

  
   私達は片方の天秤皿の上で生れていた。私達を生んだ
  ものが何であるかは知らなかった。皿は巨大で、朝と昼
  と夜のある宙に浮いており、はるか下の方は闇の雲がゆ
  っくりと大きく渦巻いていた。私達の載った皿の対(つい)の
  天秤皿はおろか、皿を支える支点さえも遠く遠く霞む大気の
  向こうにあって、私達は見たこともなかった。


   皿の上には何もなかった。風の吹く度にどこからか流
  れて来る砂がわずかずつたまり、やがて砂は土になった。
  私達は拾い集めておいた種をそこに播き、空一面から降
  る雨と光とで種から苗を育て、実を収穫した。繁る草に
  ひそむ虫を捕え、干して保存した。季節の変わる時には、
  頭上を渡って行く鳥の群の互いに呼び合う声を頼りに弓を
  引いた。私達は日毎大きくたくましくなっていったが、私達
  の載った皿は次第に宙に上(のぼ)っていった。


   寒い日の夜は火を焚き寄り添って寒さをしのいだ。そ
  んな時私達はもう片方の皿に何があるのか話(はなし)した。
  小さな弟はカラスだと言った。たくさんのカラスが卵を産んで
  いるのだと。 三番目の兄は父と母だと言った。父と母とが
  私達が大きくなる以上に肥えて行くのだとーー。無口な一
  番上の姉がいつかこんな風に集まっていた時、一度だけ
  自ら話し出したことがあった。「私は思う。あそこにいるの
  は私達ではないかと。私達があそこでふえているのではな
  いかと。 「ああ。私達はふえるのをやめようではないか。
  兄や姉、姉や弟、妹や兄、弟や妹。私達はそんな関係
  (あいだ)でふえるのはやめようではないかーー


   姉はその後死んだが、私達は姉の言葉を守ってふえず
  に生きた。あれからも私達の皿は少しずつはてしなく天へ
  近づいていく。薄くなる大気と夜のなくなった一日中明るい
  光の中にいて、私達の肉体は内側から透けるようになって
  いた。 余り動くこともなく、話しをすることもなく、今では
  もう食べなくてもよくなっていた。


   収穫をしなくなった穂はいつまでも青々と豊かに実り、
  たくさんの虫をその中に隠していた。渡り鳥は頭上を渡
  らずに、皿の下の方を鳴いて渡って行く。


   今でも 私は思う。あの大きく渦巻く闇の中を、更に
  静かに沈み続けて行く私達の対(つい)の天秤皿。あの
  皿の上の「重さ」。 あれはいったい本当に何なのだろ
  うか…と 。


          *          *           *

     前田さんの第2詩集「昆虫家族」から2編載せました。
     ( )のなかは原文ではルビになっています。  

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2008年07月07日

前田ちよ子詩集「星とスプーン」より

前田ちよ子さんの詩集「星とスプーン」(1982)より2編載せます。

             氷河

        (ああ 迎えにきたのだね……)

     家の門の暗がり
     遠く(たぶん 遠く)
     四つの脚をしてやって来たおまえと
     私は家を出よう

     うなだれたふたつの耳と
     私は連れ立って
     街を抜け
     幾つもの山を越えたところ
     私達のはじまった
     あの茫々の草原の波の中に
     おまえと抱き合って沈む…

      覚えているよ
      おまえが犬といわれるものでなく
      私が人間(ひと)といわれるものでなく

      大気を浮遊していた
      おまえと私との生命源(プラナ)の邂逅の後の
      一粒のぶどうの種のような
      さみしい抱きあいの重み
      この草原の底に沈んで
      私達やたくさんの生命源(プラナ)達の
      静かに降らす夢で
      幾重にも幾重にも自分達の眠りを
      埋蔵していった……

      きしきしと
      夢の氷河の亀裂(クレバス)を
      きしきしと
      きしきしと
      私達の氷る耳の傍を
      目覚めたもの達の足音が
      渡って行ったね
      やがて
      私達も溶けるように目覚め
      すりへった地層の階段を上って行くと
      そこはまだ昨日の明けていない
      渦巻く草原だった

      私は草を焚き
      かげろう青い炎をはさんで
      おまえとゆらぎながら向かい合っていた
      その時
      おまえは一本の細い垂れた尾を持っていて
      私はわずかな文を書くことばを持っていた 

      ただ
      おまえも 私も
      溶けきらない灰色の眼をしていたのを
      互いに深く見つめ
      それから
      炎が落ち

      別れたね


     今も
     私のことばは
     拙い文しかつづれない
     おまえの細い尾は
     そうして垂れたまま
       (いったい何処の冷たく堅い土に
        自分を繋げていたのだろうか)
     変わらない灰色の眼のまま
     おまえは
     私の中の灰色を想って
     遠く(たぶん 遠く)
     出会いにやって来た

       ねえ 決して思うまい
       私達のこの土の上での
       骨と肉のはじまりに
       私達が眠りすぎたなんて
       遅すぎたなんてね

       草原の底深くからの
       私達の目覚めの時に
       溶けきれなかった灰色の部分
       それが私達そのものだったのだから


    
     うねる草原に
     重かった肉と骨をぬいだら
     私と おまえと
     ふるえる大気の中を
     別れて行こうね……
     今度こそ
     溶けない夢の降り積む
     眠りへの出合いのために


         
          たとえば


     君と別れ
     これから漂流する僕が
     いつか
     疲れはてて港に行き着くことがある
     気流の変わる
     日没の海を眺め
     寄せて引く波の振動を聴くうちに
     たとえば
     ふと 自分が以前
     あかね色の脚のかもめだったことを
     思い出すかもしれない

      
       僕はかもめだった

    
     僕はそこで人間(ひと)の形を解いて
     かもめになる
     それから
     翼を広げたあかね色の脚のかもめの中で
     僕はひたすら疲れながら
     飛んで生きるだろう
     かもめの以前(まえ)の僕を
     ふと 思い出すまで
     僕は
     僕の形を
     そうやってどこまでも遡り
     やがて僕が
     もっとも僕であったところまで行き着く

    
     君
     君も
     合わせた鏡の奥深くから
     一つ一つノブを回す度に
     変化した形を思い出して遡る
     そしていつか きっと
     最後の扉を開けてたたずむ君と
     僕は向き合う

     
     言葉や肉体で現せない
     あらゆるもの
     あらゆるもので
     不変の
     ただひとつのもの
     君 そして 僕

                  

                 *    *    *

   作品の中の( )は原文ではルビになっています。


             

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2008年04月14日

七月

 田代芙美子さん発行の「泉」66が届いた。充実の内容。いいなと思う作品がいくつもある。田代さんの連載エッセイ「マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の光と影に」はもう45回目だ。綿密な考証と、のびやかな筆の運びに魅せられて、毎回楽しみに読ませていただいている。彼女のプルースト研究の師である井上究一郎氏には、私も大学時代に教室でプルーストの講義をきいた。そのころちょうど出始めたこの翻訳を毎月一冊ずつ貴重品のように購入した頃の胸のときめきを思い出す。

 今は井上氏も逝かれた。いつか新潟の田代さんのお宅を伺っ折、「失われた時を求めて」のゆかりの地を訪れた際のエピソードなどを、彼女のお手製の梅酒をご馳走になりながら伺ったことなどを思い出す。忘れがたい愉しい時間だ。
  
 ここでは66号の巻頭に置かれた財部鳥子さんの詩をご紹介したい。このような詩を読むと、なんの説明も不要。ただ極上のおいしい一品に出会えた気がする。一期一会。それもさりげなく…。なんて洒落た詩だろう。

                七月          
                            財部鳥子

          
           七月の空気は裸
           
           恥ずかしいから蓮の池に隠れている

           大きな葉のしたから蕾を高々と掲げて

           みんなに見せている

           

           たいていは朝の水辺でのこと

           すっきり伸びた茎の先の蕾がやわらかい指を開くとき

           花のてのひらが

           木霊を隠していたことが分ってしまう


           一輪 ひらいて ぽん 幽かなおとがして

           山の空気は宙へ帰っていく


                      
           祖母は百歳のてのひらを

           そっと 蕾がひらくときのように開いてみせた

           無数のしわに刻まれた手のひらから

           七月の無音のおとが空に放たれた


           しずかに目をつむってお聞きなさい 
           
 

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2008年04月01日

something6より

このところ雑事に追われ忙しく暮らしていて、いまごろになって、鈴木ユリイカさん発行の「something6」をゆっくり読むことができ、そのなかでいくつもの作品に出会い、いつもながらのようによい刺激をいただくことになった。今日はそのなかから、以下の作品を引用させていただくことにしたい。


              夏茱萸     
                           尾崎与里子


            かぞえていたのは

            梅雨明けの軒下の雫と

            熟しはじめた庭隅のグミ

            そのグミの明るさ

            私は〔老女〕という詩を書こうとしていた

            眼を閉じるとひかりの記憶に包まれて

            すぐに消え去ってしまう いま と ここ

            時間のなかで自画像が捩れてうすく笑う

           
            初夏の明るさに

            この世のものでないものが

            この世のものをひときわあざやかにしている

            母性や執着の残片があたりに漂って

            耳もうなじも

            聞き残したものを聞こうとしてなにかもどかしい

            それはふしぎな情欲のようで

            手も足も胸も背中も

            そのままのひとつひとつを

            もういちど質朴な歯や肌で確かめられたいと思う

            刈り取られていく夏草の強い香

            ひかりの記憶

            たわわにかがやく夏グミの

            葉の銀色や茎の棘

           〔老女〕はきらきらした明るさを歩いていて

             ※      ※       ※


 私は母の死後、このようにもvividに失われた彼女の時を生きなおしただろうか。とくに2連目の、草
いきれのように匂い立つ、生と死をゆきかう時間の感触。よみがえる時のきらめき。このような詩に出
会うと、私にはいまというこの一瞬さえ惜しまれてくるのだ。

 また「いとし こいし」も楽しく秀逸なエッセイだった。

      
      

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2007年12月24日

左岸

 12年間休刊中だった詩誌「左岸」が復活し、このたび「続・左岸」31号が送られてきた。同人は新井啓

子さん、広岡曜子さん、山口賀代子さんの3人である。以前のもそうだったが、今号はいっそう瀟洒な装

丁で、清楚な雰囲気が心地よい。さすが女性たちの詩誌という思いで読ませていただいた。そのうちの

一篇を紹介させていただきたい。


                 

                    蘚苔             

                                               山口賀代子

おさないころ

祖母につれられ わけいった深い森のなかのちいさな流れのそばで

石にしがみつくようにはえている苔をみたことがある

植物と水の匂いのする濃密な世界のなかで

まじわっていたわたしたち



五十年たち

湿度のたかい都市の一室で苔とくらしている

枯れ草のようになっていたものが

ほんのりうすみどり色になり

濃い緑になり

太陽のひざしを浴びると金色にかがやきはじめる

ただ光をとりこんでいるだけのことかもしれないのに



黄金色のちいさな花〈…だろうか)がさいて

胞子がとぶ

そのしなやかなベルベット状のものをひとつまみ

実生から育てた欅の根元に移す

と しばらく

いきおいをなくし枯れたかにみえるものを

根気よく水遣りをつづけると

黄色いちいさいひらべったい塊が黄金色にかがやきはじめる



ちいさな森がそだちはじめている

都市の一隅でなにほどもなくいきる女のかたわらで


                       ※
 


 ちいさな森…ちいさな森…ちいさな森…。そうだ、わたしも身辺にちいさな森を育てなければ…。森では

いろんなことが起こるのだから。おさない兄妹がパンくずをこぼしながら、歩いているかもしれない。魔女

の家だって建築中かもしれない。この星の上から森はいま静かに消えつつある。せめて身辺にちいさな

森…ちいさな森…ちいさな森をつくっていこう。

                 

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2007年10月14日

文芸コンクール

 今年は、第37回神奈川新聞文芸コンクールの現代詩部門の選考をさせていただいた。今年は暑い夏だったが、さらに熱い多くの方々の表現への意欲となまの声に触れることができたのは新鮮な経験だった。もう紙上にも発表されたので、ここに第一席の入賞作を載せてみたいと思う。


                   ヒマワリ          
                                         志村正之


              朝の輝きで一杯に盛り上がっている海を
             
             両手ですくい挙げて顔を洗った。


              
              指の隙間から光の雫が

             バシャバシャと溢れ落ちていく。

              

                あの山のイノシシの鼻に

               大きな工場の煙突の中に

               僕が過ごした小学校の

               グランドに引いた白線の上に


               
               川から飛び出した岩の端っこに

               八百屋や魚屋や

               干からびた田んぼやみかん畑に

               
               小さな駅のレールの上に

               鉄屑の山に乗っかった

               ステレオの回転盤に

               新しく出来た

               道路とマンションのコンクリートに


             
             そして、昨日君が撒いた

               小さな花壇の

               ヒマワリの種の上にも。


          ※              ※

 この詩を読むと、生きてるってすてきなことだなあ…と全身に感じます。あたりがザワザワしてきます。習慣的に繰り返している平凡な行為やしぐさも、想像力を生かすと、とんでもない豊かな広がりと奥行きをもっているんだなあ…と。
読んで幸せになる作品でした。作者は陶芸家とのこと。いつも五感で直接モノに触れている方なんですね。  

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2007年07月05日

「のどが渇いた」 八木幹夫

 6月の読売新聞掲載の八木幹夫さんの詩を、あらためてここに載せたい。


              のどが渇いた             八木幹夫

       どーっとかたまりになって走っていった

       象の大群ではない

       どーっとかたまりになって動いていった

       土砂くずれではない

       ずーっとかたまりになって揺れていた

       逃げ水ではない

       ずーっとかたまりになって働いていた

       更新された機械ではない

       ときには

       鬼の充血した目のような

       マグマをのぞかせることもあったが

       おおむね我慢した

       

       かたまりになるのは嫌だったから

       朝早く家をでて

       会社へも 外国へも

       この世の果てならどこへでも

       飛び出した

       かたまりのまま

      


       どーっとかたまりになって定年退職

       塊

       ニンゲンのかたちとは似て非なるものだ

       土まみれの鬼だ

       ついに

       コケ生す巌(いわお)となるようには

       一枚岩にならなかった

       どーっとかたまりになって死亡通知

       (ここで一同起立 君が代斉唱)

      

       ひかりの揺れる川床で

       それぞれのさざれ石はあぶくのように

       つぶやいた

       「のどが渇いた」 

             ※

読むと分りやすいが、書くのはなかなか難しい作品だ。この鮮やかで痛烈な風刺に、「やった!」と胸の中で叫んでしまった。とくに3連、4連の切れ味のよさ…。
八木さんに言わせれば,「団塊の世代の自虐と揶揄と風刺をこめた」作品ということになるが、団塊の世代でなくとも、今の時代と世相を生きる多くの人間にとっては、胸のすく思いで読める一篇ではないか。

       

        

        

投稿者 ruri : 21:38 | コメント (1) | トラックバック

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2007年03月22日

「いっしょに暮らしている人 」(2)

この羽生槙子さんの詩集には、”いっしょに暮らしている人”についての詩が、このほかにもいくつか載っていますが、今日はちょっとまた違う味わいの作品を紹介してしまいます。
これは夢についての詩のようです。

                        旅芸人のはなし


              「わたしたちみんなで 家を捨てて
               旅に出ることになったの
               ピカソの絵の旅芸人のように
               サーカスをする人たちのように
               旅は海
               夕暮れ 海辺でわたしたちが地引き網を引くと
               魚ではなくて とりのからあげがあがってきた
               とても大きいからあげだった
               きたないような きれいなような
               けれど 地元の人たちが来て
               そんなおおげさなことをしてもらっては困る
               と言うから わたしたちはまた
               荷物をたたんで旅をしたの」
              夢のはなしを 朝 わたしは家族にしています
              そこから 波瀾万丈の暮らしがはじまった夢


              家を捨てて みんなで旅に出るはなし
              旅芸人になるはなし
              その先を わたしがもう覚えていないはなし
              だから だれも知らないはなし
              そこでわたしは何をし
              わたしの家族は何をしていたのだったでしょう
              わたしたちは 赤や青の服を着ていたようでした
              だれか上半身裸で だれかタンバリンを持ち
              地引き網は藻がからみ
              さびしくて サバサバして
              けれどお互い話したいことが次々あって歩き続けていた


                          ※

おもしろい詩ではありはませんか。その家族たちは(自分も含めて)今もどこかでその続きを暮らしている…そんな気がしてきませんか。私はこの詩の中で、2連目の「地引き網は藻がからみ」という1行が、この詩にリアリティを与えている気がします。詩の1行の力は不思議です。私は不思議な詩が好きです。                     

投稿者 ruri : 21:17 | コメント (1)

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2007年03月21日

「いっしょに暮らしている人」

お彼岸の朝、TVで9.11のドキュメントと、それに続くイラク戦争の映像を見ていて、心がささくれ立ち、血が流れはじめる。もう、辛くて途中で消した。

その後、羽生槙子さんの「いっしょに暮らしている人」という詩集をまた読む。少し心が落ち着いて、頭上に晴れ間が見え、日差しがほのかにみえてくる。こんな風にして人びとは毎日暮らしている。ここに当たり前の生活があるのに、と。


                       平野

           庭では すすきの垂れた穂に
           のらねこの子ねこがあきずにとびついて
           あの人が娘家族のところに行くので
           わたしは
           ゆで栗とゆでぎんなんと梅干しと
           ぶどうを持っていってもらいます
           栗は人からいただいたもの
           ぎんなんはあの人が
           勤め先のいちょう並木から拾ってきたもの
           梅干しはわたしが漬けて干したもの
           ぶどうも人からいただいたもの
           木の実ばっかり
           秋ですから
           あの人はりすのおみやげみたいのを
           持っていってくれるでしょう
           大きい川が流れる土地を
           銀色の帯のような川を
           あの人は四つもわたっていくでしょう
           関東平野を横切るのでしょう
           あの人はあした
           孫娘の保育園の運動会を見に行くでしょう
           関東平野の秋の日ざしを見にいくのです
           子どもをそりにのせて走る
           競技にまじって走ったりするのかもしれません
           あの人は
           秋の木蔭のチラチラする光を
           頭からかぶりに行くのです
           遠い山々からの
           木枯らしの前ぶれみたいな
           風の中に立ちにも行くのでしょう
           あの人は 木の実のおみやげをいっぱい持って
           銀色の川を四つもわたり
           平野を横切り
           空の青に顔をひたしに
           秋の運動会に行くのでしょう


                      ※


 この語り口と、歩行するリズムの心地よさに、自分の呼吸をつけながら、想像力が共に旅をしていく。
長く暮らして老いを迎えつつある日々の夫婦の暮らしの中で、このようなナイーブなまなざしを持って、パートナーへの想い(生きることへのなつかしさそのものみたい)に、ある角度から光をあて、詩作品に取り入れることは、とても難しいことではないか。ナイーブに、気取りのない表現で。
 これは多分羽生槙子さんの「言葉」へのながい修練と、また生きることへの持続的な意識のあり方からのみ生まれたよき収穫なのだと思う。
 そして、これはまた女性であるからこそ書けた詩かもしれない。現代詩のなかで、家族や夫婦の関係についての、(人と人との関係についての)あるあたらしい表現意識ではないか。それは、当然詩人の生きてきた、ぬきさしならないありように負っているのだけれど。

次回、もう一篇魅力的な詩を引用させていただきたい。
   
               

投稿者 ruri : 10:43 | コメント (0)

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2007年02月13日

ロバート・ブライの詩 中上哲夫訳

中上哲夫さんから「十七音樹」という俳誌が送られてきた。中上さんはもう20数年間、ブライの詩を読み続けてきたとのこと、特に2005年から若い詩人たちとブライを読む会を月一回開いてきたとのこと。
私もその訳を読んで、新鮮な印象を受けた。ここにその俳誌2号に載った、ロバート・ブライを読む(1)−恋をするとーから、引用させていただくことにした。


LOVE POEM


When we are in love, we love the grass,

And the barns, and the lightpoles,

And the small mainstreets abandoned all night.


恋の詩     

恋をすると、ぼくらは好きになる、草原を、

納屋を、電信柱を、

そして夜通し見捨てられた本通りを。

          
DRIVING TO TOWN LATE TO MAIL A LETTER

It is a cold and snowy night. The main street is deserted.

The only thing moving are swirls of snow.

As I lift the mailbox door, I feel its cold iron.

There is a privacy I love in this snowy night.

Driving around, I will waste more time.



夜遅く車で町へ手紙を出しに行く      

寒い、雪の夜。本通りには人っ子一人いない。

動いているのは渦巻く雪だけ。

郵便ポストの蓋をあけると, 鉄が冷たい。

こんな雪の夜にはわたしの好きなプライヴァシーがある。

その辺をドライブして、も少し時間を浪費しよう。

                  

(この訳の”プライヴァシー”という表現が心に残った。PRIVACYとう言葉は、日本語に訳すのはここでも難しいというのが分かる。プライヴァシーが意味する観念を日常の日本語ではまだ表わせないんだと気がつく。では最後に訳された詩だけを…。 ) 


         


 雉子撃ちの季節の最初の日曜日なので、男たちが獲
物を分けるために自動車のライトの中に集まる。 そし
て電気の近くで押し合いへし合いし、暗闇に少し怯え
ている鶏たちがこの日最後の時間に小さな鶏小屋のま
わりを歩きまわっている。鶏小屋の床はいまは剥き出
しのように見える。
 夕闇がやってきた。西の方はまっ赤だ。まるで昔の
石灰ストーブの雲母の窓からのぞいたように。牡牛た 
ちが納屋の戸のまわりに立っている。農場の主人は死
を思い出させる色あせていく空を見上げる。 そして、
畑では玉蜀黍の骨がきょう最後の風にかすかにかさこ
そ鳴る。 そして、半月が南の空に出ている。
いま、納屋の窓の明かりが裸木の間から見える。


                            ※


さいごの詩の後半部分を読んでいると、聞く、見る、触れる、嗅ぐ、そしてもしかしたら味わう…までの感覚が刺激され、どこかただならない雰囲気をもつ、秋の夕暮れの一瞬へと、呼び込まれていく。風景の背後に隠された雉たちの殺戮が、この夕景をいっそう赤々と印象付けている。このくだりを小説の一部として読んでも、そこで立ち止まり、強烈な印象を刻まれるだろう。それにしても思うのだが、詩人というものは散文がちゃんと書けないと駄目なのだと。それも一応意味を伝える、用件を果たす、ただ普通の文章が、きちんと書けないと…と。


さてこの一文は中上さんの次のような句で、終わっています。

      雉子撃ちや火薬の匂ひと血の匂ひ             ズボン堂

      雉子撃ちの男をつつく家畜かな
                  
   
             

     

投稿者 ruri : 10:39 | コメント (2)

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2007年02月09日

月へ  原利代子

SOMETHING 4からもう一篇。原利代子さんの詩です。


                   月へ     原利代子

          信じないかもしれないけれど 月へ行ったことがある
          鉄棒に 片足をかけエイッと一回転すると
          月に届く秘密の場所があるのだ


          あちらでの住まいはダンボールづくりの茶室
          お湯も沸かせないところだけどー
          壁にくりぬいた丸窓から月の表面が見渡せる
          にじり口に脱いだわらんじに
          月のほこりがしずしずと積もっていくばかり
          月ってそういうところ


          わたしの住んでいた街が
          こんな風になってしまったことがある
          月の光景はあの時とそっくりなの
          見渡す限りがあんな風にー
          焼け跡の地面はいつまでも熱かった
          はいていたわらんじが焦げるので水をかけて冷やした
          歩いては水をかけ 歩いてはまた水をかけ
          あれから六十年
          地球はいつでもどこかで燃えていて
          わたしのわらんじは冷めないまま


          秘密の場所?
          いいえ 教えない
          普通の人はロケットで行けばいいのよ
          アポロ サーティーンなんて気取ってね


          また月に行くかって?
          そうねえ ここから眺める月は美しいけど
          月から眺めるのはとても淋しいの
          完璧な孤独ってわかる?
          わらんじがいつか冷めたらまた行くかも知れない
          その時 まだ鉄棒でエイッと出来るといいけどー


                        ※

この詩に心底、脱帽! こんなに愉しく怖い作品にはめったに出会えない。ファンタジーの手法を駆使して、ここまで痛烈な作品を書けるんですね。何の理屈も言わずに。最後の連を読むと、シーンとした気持ちになってしまう。(わらんじ)っていう表現もいいなあ。                      

投稿者 ruri : 21:07 | コメント (0)

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2007年02月07日

「水を作る女」 文 貞姫

鈴木ユリイカさん発行の「SOMETHING 4」を読了。力強い作品の数々を読む楽しみにしばらく浸った。いくつかの魅力的な詩の中で、今日は特に惹かれた文 貞姫さんの作品を写させていただきたいと思う。

                
                          水を作る女   文 貞姫

                   

                    娘よ、あちこちむやみに小便をするのはやめて

                    青い木の下に座って静かにしなさい

                    美しいお前の体の中の川水が暖かいリズムに乗って

                    土の中に染みる音に耳を傾けてごらん

                    その音に世界の草たちが生い茂って伸び

                    おまえが大地の母になって行く音を

                    
                    
                    時々、偏見のように頑強な岩に

                    小便をかけてやりたい時もあろうが

                    そんな時であるほど

                    祭祀を行うように静かにスカートをまくり

                    十五夜の見事なおまえの下半身を大地に軽くつけておやり

                    そうしてシュルシュルお前の体の中の川水が

                    暖かいリズムに乗って土の中に染みる時

                    初めてお前と大地がひとつの体になる音を聞いてごらん

                    青い生命が歓呼する音を聞いてごらん

                    私の大事な女たちよ

                                            (日本語訳  韓成禮)


                              ※

この詩をよむと、のびのびと心が解放される感じです。人の体は水の運搬人,水の管なのだと私も実感します。この感じは都会の暮らしではなかなか味わえませんけど。私は、乾いた鉢植えの木の根元に水をやるとき、地面が水を吸い込んでいく音が大好きです。
十五夜のような下半身…ていうのも新鮮!エッセイ「髪を洗う女」も同じ題の詩もどきどきする生命力を感じました。鮮やかな詩でした。                    

投稿者 ruri : 16:57 | コメント (0)

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2007年01月28日

草野信子詩集『セネガルの布』

草野信子さんの詩集『セネガルの布』から一つ詩を写させていただく。この詩集はその内容にぴったりの実におしゃれな装丁で、手にしても感覚的に心地よい。この表紙の、重ねられた二枚の色のコントラストの陰影のある美しさ、これはセネガルの布を模した色なのかしら?などと勝手に想ったりする…。私も一枚だけ持っているマリ共和国の、大地を思わせる色のテーブルクロスを思い出しながら。

                 

                セネガルの布
             
              なにに使おうかしら 
              と言ったら すかさず
              〈風呂敷です〉と答えたので 笑った

              
              テーブルクロスには 大きすぎて
              でも ハサミをいれたくはない
              藍染の木綿

              
              部屋いっぱいにひろげて
              アフリカの女たちの
              素朴な手仕事のはなしを聞いた

              
              セネガルから帰ってきたひとの土産
              
               
               〈人間であることがいやになったときは
                もの、になって
                部屋の隅にころがっているといい
                これは そのとき
                あなたを包むための、風呂敷〉

              
              夜の湖面をたたむように
              折りたたみながら
              うなずいた
              だから

              こんな夜は
              包まれて眠る
              セネガルの布に、ではなく
              きみの、 そのことばに

                    
                     ※

  詩人と、もうひとりのだれかとの、とてもすてきな心のゆきかいが、手に触れられそうな詩。
  私はこの詩人の、生への洞察力と、繊細な感受性、そして端正な居住まいをもつユーモアに
  心惹かれます。

             

        

投稿者 ruri : 22:32 | コメント (4)

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2007年01月20日

水橋晋詩集「悪い旅」より

昨年二月に急逝された水橋晋さんのお宅を、昨日初めて訪れ、晶子夫人のお話をゆっくり伺った。あかるい冬の陽射しに満たされたリヴィングルームには、生前の彼の画や詩が何枚も架けられ、写真が立てられ、まだそこに水橋さんの居られるような気配だった。その折にお願いして、夫人からいただいた彼の第一詩集『悪い旅』ー昭和55年沖積舎刊ー〈その前に17歳のとき出された自家版の詩集もあるが、それは別にして)から、特に印象に強い詩を一篇挙げさせていただきたいと思う。澄んだ水面を通して、ふつふつと湧き上がってくるようなエロチシズム〈生命への感応力)に触れ、後年の彼の作品にも流れ込むレトリックの源流をきく気がする。

                              ※

                        奔流
               

                 私がくぐり抜けてゆくところは
               
               花のおくにひろげられた夜のなからしい
               
               茂みのしたをはいってゆくだけで
               
               息づくけものたちの気配がしている
              
               ひかりのとどかない内側で
               
               こんなに暖かく泡だっているなんて
               
               風はいつもやさしく花片を撫ぜていたにちがいない
               
               用心ぶかく星をさえひからせないでいたにちがいない
               
               
               
               
                
                それだから私は降りる
               
               ひと足降りてまた降りてそしていっきにかけ降りる
               
               樹液をいっぱいみたして
                
               いっぽうの端からもういっぽうの暗い芯にむけて
               
               睡りからさらに遠くおしやるために ゆすぶるために
               
               そのとき百万のけものたちと小鳥たちがめざめる
               
               夜は大揺れに揺れうごく
               
               空にむかって花片をおしあげ
               
               樹液のなかで渦をまく
                
                 それで 太陽が 花のなかで 一千も
               
               破裂したかと思ったのに 鳥一羽 おっこちなかった

               
               
               
               ひかりが大地のうえをめぐりはじめるころ
               
               風はまもなくやむだろう
               
               海のように深みを甦らせ
               
               静けさを澱のようにしずめて
               
               全部が全部傷つくのかもしれない
               
               黒い奔流がそして体のなかに脈打つ
               
               私ははだしではいってゆき
               
               ふたたびはだしで帰ってくる

投稿者 ruri : 21:07 | コメント (0)

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2006年07月23日

To a Lost Whale

先日ハーバード大のCranstonさんからメールが入り、来学期のゼミで私の書いたクジラの詩を紹介したいとのこと。クランストンさんとは、10数年前に、私がケンブリッヂにしばらく滞在していた頃にお目にかかったのだが、それ以来ずっと私の詩の訳をしてくださっている。彼は日本文学〈和歌の翻訳と研究が中心)の教授であり、詩人である。「A Waka Anthology 1」によって日米友好基金日本文学翻訳賞を受賞している。

この詩は漂着死したクジラのイメージからのもので、1990年発表。いまさらちょっと恥ずかしいが、詩集には入れていないので,これを機会に訳詩と並べて紹介したい。

           
               To a Lost Whale 喪われたクジラへ                                               by Mizuno Ruriko
( translated by Edwin A .Cranston)


Sometimes I wonder
Aren't you out there even now
floating your sick body on the waves
pouring out your life
in a song of love
sung on and on?

 
 ときどき私は思う
 あなたは 今でもまだ
 病んだからだを 波に乗せ
 けんめいに 愛の歌を
 うたいつづけているのではないかと


O whale --
what crippled your sense of direction?
For all the world as if you feared to drown   taht day
you fled the sea toward us
(and I --it was then I met you......)
 
 

 クジラよ
 あなたの方向感覚を狂わせたのは何?
 まるで溺死を怖れるかのように あの日
 あなたは海を逃れてやってきた
    (そして私はあなたと出会った……)


I love you
Enameled as you were with stardust of the sea
with barnacles and shells
you fell away alone
enormous from the dark
I love the bigness that is you
Listen −− when I pressed my ear to your wet skin
I felt for the first time -- oh, yes --
with my own touch
the briny beating of the universe
between the dazzle of the sky and sand

 
私はあなたが好きだ
 海の星屑の 貝やフジツボにいろどられて
 闇からはぐれおちてきた
 あなたという大きさが好きだ
 ぬれたあなたの肌に耳を押しあてて 私ははじめて
 塩からい宇宙の鼓動に触れたのだもの
 まぶしい空と砂のあいだで


(Maybe, eons ago, I shared with you, aquatic ape that I was,
the frothy atmospehre of milk churned up by blustering storms.
Foster brother and sister, perhaps we fed at the same breast.
A fragment of green forest sunken in your brain, the shadow
of a waving polyp etched in gray on my retina.......But our lives
have been classified , and in the end our souls no doubt will
vanish like two separate drops of blood drying on the sand.
Without ever combining into one.)

  
  ( もしかして水生のサルである私は吹きすさ
    ぶ風に攪拌されて泡立った大気のミルクを太
    古のあなたと分けあったのだ 乳兄妹として。
    あなたの脳髄のすみには緑の森が沈んでいて
    私の網膜には灰色の珊瑚虫の影がゆれている。
    でも私たちの命は分類されて やがて魂は砂の
    上の二滴の血のように蒸発するのだろう。
    決して融合することのないままに。)


Yet the day will come
O whale
when between our two bleached skulls
sea spume driven by the wind
will blow again
and then we shall return
you and I to the one song sung
on this great earth


O whale far away

 
けれどクジラよ  いつか
 白くさらされた二つの頭骨の間を
 あの風のしぶきがまた吹きぬけていくとき
 私たちはこの大地の上で
 ただ一つの歌にもどれるだろうね
 遠いクジラよ
                     
 



                     

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2006年03月01日

「出入口」から

最近送られてきた「出入り口」NO1から,荒井隆明さんの詩を一つ書かせていただく。

                

               三輪車
            

             ゆっくり遊んで
             何が悪いのよ
             と
             口をとがらせて
             女の子は少しずつ向こうへ
             小さくなっていった
             小さくなって
             小さく
             なっ
             て
             ・
             になったところで
             やっと安心して
             もう
             戻らなくていいのだと
             また
             ゆっくりと
             小さくなって
             軋んだ音が少しはじけると
             葉と枝の間に
             消えてしまった
             風が吹き抜けて
             道は吹き飛ばされ
             もう
             何もかも
             なくなって
             何もかも
             忘れてしまって
             時々
             風に混じって
             軋む音が
             乾いた枝のように
             折れているだけだ

この、時間の形象化がおもしろく、読後に残される空間感覚にひかれた。この号にはほかにもおもしろい作品があった。

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2005年11月19日

近藤起久子詩集「レッスン」より

                波   
                                近藤起久子

            土手を走っていく
            七月の朝の電車は
            がらんとして      
            下から見ると
            どの窓にも
            ゼリーのような青空が
            ならんでいる


            土手は夏の草でぼうぼうだ


            波のように風がたち
            青い朝顔を
            いくつもゆらしていく


            裏から透かしてみれば
            今日だって懐かしい


            波の下から見る
            光の景色だ   
  

(これは近藤起久子さんの「レッスン」という詩集に入っていた詩。”裏から透かして”みる目があったら、ずいぶん生きられる領分が違うだろう。この2行で詩がふいにみずみずしく私の中に流れ込んでくる。私もきっと”懐かしい今日”をたったいまも生きているのに…と気がつく。)

               
             倍音

                                   
            桃の花が咲いた

            
            枝には
            雪のつもった枝が
            かさなっている


            水色の春の空

             
            その空に
            灰色の冬空が
            かさなっている


            笑ったこどもの顔に
            泣き顔がかさなっている


            それから
            日のあたる橋にかさなる
            死体だらけの橋


            ふりかさなったことばで
            指あみするように
            おばあさんが話している

            
            すこしずれたところは
            モアレみたいな
            網目模様になっている


(今日、私の中には、どのくらい、ふりつもったり,かさなったりしたものがあっただろうか。いつか言葉になりたいものたちのかすかな身じろぎ…。)          

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2005年10月22日

詩ひとつ

                     風景                前田ちよ子             

             僕等はこれから生まれるのか
             それとも死んだあとなのか
             僕等のいるこの闇が
             何なのかわからない

             
             さくらのはなの散る下で
             僕等は輪になって座り
             うすいももいろをしているはなびらを
             たぐり寄せては
             細い針と細い糸で綴り
             僕等の知らない
             あるいは忘れてしまった母のための
             厚い花輪を作り続ける

             
             切れ切れに はるか遠く
             僕等を呼ぶ声が聞こえたような気がして
             手を止め 眼をこらし
             耳を傾けたあと
             一層緻密になる闇

             
             ひざの上に積み上がって来る
             はなびらの重い綴りを繰り
             積み上がれば繰り

             
             積み上がれば繰り…
             僕等はこの繰り返す作業に埋没し
             やがて さくらのはなびらの散る音も
             あの声も…
             僕等には聞こえなくなる


これは「ペッパーランド」の創刊同人だった前田ちよ子さんの作品。今は詩をかくことから離れているけれど、彼女の詩には、時空を超えた生への神話的想像力が感じられて、読むたびに心惹かれるものがあった。その詩に触れるたびに、しんとした気持ちにさせられた。
「前田さん、また作品を読ませて欲しいよ!」 
この声がいつか彼女の耳に届くように!


                    
             
                 

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2005年09月24日

風のほとりで

                 風のほとりで


                風が吹く 風が吹く
                木の葉そよがせて
                風が吹く 風が吹く
                はてしない時の谷間を
                ひとすじの風の流れのほとりに生まれ
                人は今 この星でヒトの時代を過ごす


                風が吹く 風が吹く
                海を波立たせ
                風が吹く 風が吹く
                今日一日の哀しみ
                ゆるやかな風の流れのほとりで出会い
                人は夜 この星の仲間たちと眠る


                風が吹く 風が吹く
                空をこだまして
                風が吹く 風が吹く
                何億年の彼方へ
                絶え間ない風の流れのほとりを歩き
                人はまだ この星に残す言葉を知らない 

                           曲、堤政雄  詞、水野るり子  

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2005年09月20日

鯨売りの歌

                 鯨売りの歌


              クジラを探しに出かけたんだ
              岩ばかり続く荒れた海へ
              おれの船はもう役立たずで
              迷いクジラの一頭さえ見つからない
              海は汚れ 砂浜は靴跡と骨ばかりさ


              おれはやっと明けがた戻ってきた
              地獄の底から引き上げられたように
              おれの心はくたびれて
              なんだかもうあの空がからっぽに見える


              海は黙り 砂浜は靴跡と骨ばかりさ
              むかし仕留めたあの大クジラの声だけが
              あの世までおれの暗い海を騒がせるのだ


              せめておれは歌おう
              残されたクジラ売りの歌を
              おれは歌おう
              すばらしいあいつらのために
              消えてゆくあいつらへのはなむけの歌を


               ”クジラはいらないか
                とりたてのクジラはいらないか
                おいらの仕留めたこのクジラ
                うまいステーキ クジラのさしみ
                大きな骨で家が建つ
                小さな骨で傘を張る
                脂をしぼろう 火をつけよう
                石けんに 機械油に カーワックス
                ダイナマイトに ソーセージ
                肝油、靴べら、麻雀パイ
                ドッグフードから ボタンまで
                無駄ひとつないこのクジラ
                骨から すじから しっぽまで
                使い尽くそう このクジラ ”

              
              さあ、お立会い 
              まるごとのクジラ一頭買わないか
              お代はいらない 
              そのかわり 
              そこに立ってるあんたの魂と引きかえだ           
              それくらい 値打ちはあるよ このクジラ
              海とおんなじ 塩辛い
              血しぶき上げたクジラだよ
              悪魔のように赤い火燃やした クジラだよ
              声限り歌いつづけた クジラだよ
              夢全体と引きかえに
              おいらが仕留めたクジラだよ
                
              さあ、お立会い…お立会い  


 
(これは「滅びゆく動物たちへ」のコンサートで、遠藤トム也さんが朗唱した詩です。
 その朗誦が印象的で、今も耳に残っています。)
 

                     
                       

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2005年09月18日

キリンの星

ちょっとした買い物で横浜橋商店街まで夕方出かけたら、偶然お三の宮の大祭の日。
次々と御神輿が出てにぎやかだった。目の前でわっしょい、わっしょいやるのを、身をよ
けるようにして眺めるのは久しぶり。景気がよくて楽しい。今日は十五夜だ。ついでに
花屋さんでススキや吾亦紅やとリンドウなどを買ってきて、きぬかつぎ、枝豆、ゴマ豆
腐などならべ、バルコニーに出て中秋の名月に乾杯。

そういえばいつかこんな月の夜に、わたしは一頭のキリンと道行きしたような気がする
けれど…。

              
                        キリンの星

                   
                   キリンがある日やってきて
                   いっしょに歩いていこうといった
                   青いもやの立ちこめる
                   キリンの星のたそがれに

 
                   キリンはかなしい思い出を
                   心の底にかくしてた
                   二人で荒野を行くときは
                   月がランプをともしてた


                   キリンはとてもやさしくて
                   わたしに腕をかしてくれた
                   だれも人の見ていない
                   海辺のベンチで休むとき


                   キリンと旅をすることは
                   とてもたいへんなことだった
                   だけど二人は夢を見ながら
                   おんなじ背丈で歩いてた

 
                   キリンは何も話さなかった
                   わたしは何もたずねなかった
                   けれど二人は愛し合った
                   遠いはるかな星の上で
     
                            (作曲:淡海悟郎、 詞:水野るり子)
                     

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2005年09月17日

野良犬ピエール

            野良犬ピエール


      まるで厚いガラスの切り口みたいに青い
      まるで言葉をなくした心みたいに青い
      まるで空一面になびく花みたいに青い……
      

      …そんな青い夏の夜明けに
      まぬけな野良犬のピエールは
      声も立てずに死んでいった  
      風にそよぐ麦畑の片すみで


      空は 何にも言わずに 最後の星を消して
      風は白く 何にも言わずに 麦の穂をゆすり
      大地はめざめ 何にも言わずに けものたちをそっと抱く


      …そんな青い夏の夜明けに
      捨てられた野良犬のピエールは
      朝露にぬれたまま声も立てずに死んでいった
      すりきれた小さな首輪つけたまま

      
      ”そうしてその日空にゆれる向日葵の花の下で
      おまえは目をひらいたまま 
      初めてのみじかい夏と別れた”


(「一匹の犬よ。おまえがイヌでわたしがヒトだから おまえを殺したものを訴えることが
 できない。 おまえが輝く夏の夜明けにどのように無残に一つっきりの命を断ち切られ
 たかを。おまえの白い毛並みがどれほど農薬の吐しゃ物で汚れたかを。おまえのまだ
 幼い目がどんなに空しく明けそめた夏空の青さに向かってひらかれていたかを。
 おまえが犬でわたしがヒトだから、わたしはただ悲しむことしかできない。」……と前書き
 をつけて、この詞を発表してからどのくらいたったことだろう。でも忘れられない事件
 です。私と一匹の飼い犬(拾いイヌ)との間にほんとにあった今は悲しい思い出です。)


       

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2005年09月16日

カラスの河

                  カラスの河

              
               カラスが空を渡っていく
               こわれた古い歩道橋の上を
               カラスの河は鳴きながら
               たそがれの黒い七つの森をさがしている


               樹がたおれ 家がたおれ
               どこまでも空が焼けている
               でもだれも見るものがいない
               時間だけがのこされて
               大きなフラスコの底におちてゆく


               カラスが空を渡っていく
               こわれた黄色いガスタンクの上を
               カラスの河はうたいながら
               血のようにけむる夕焼けの空に沈んでいく


               樹がたおれ 家がたおれ
               どこまでも空が燃えている
               でもだれも見るものがいない
               時間だけがのこされて
               大きなフラスコの底に溜まってゆく


(これは1978年遠藤トム也さんとコラボレーションのような形で”滅びゆく動物たちに都会の片隅から唄う”というコンサートを新宿でひらいたのですが、そのときに書いた詩です。作曲は南さとし氏。現在パリに住んでいるトム也さんは、その後もこれを大事に唄っているとききます。)    

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2005年09月15日

サビという馬

                 サビという馬


              サビという馬のこと知ってるかい
              ある日岬にひとりっきりでやってきた
              暗い目をした三文詩人
              あいつといっしょにいた馬さ


              裏切った恋人や動物のこと
              たった三つの小さなうたを残しただけ
              ほかには何も残さなかった
              笛だけがあいつの持ちものだった


              サビという馬のこと知ってるかい
              岬の小屋で三文詩人の死ぬ日まで
              いっしょに暮らした馬のことさ
              あいつの笛をききながら


              サビという馬のこときかないかい
              風のなかで岬の小石に打たれていた
              激しいあいつの心を知っていた
              サビの行方を知らないかい


(これも堤政雄さんによる作曲。私はとても好きな曲だ。いまフランス在住のミュージシャン、遠藤トム也さんもこの歌をレパートリーにしていたが、三文詩人という言葉に違和感があるという。今は通じないかもしれない表現だが、あってもいいではないかと思う。ちょっと埃くさい感じがしてそこがいいと自画自賛。もっとも仏語に訳すとどうなるのだろう?)           
              

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2005年09月14日

カモメの島

               カモメの島

         
          カモメたちの飛ぶ島へいきたい
          真昼の海に浮かぶ
          緑の泡のような愛の島に

          
          カモメが虚空のなかをはばたき
          空と海でたくさんの風車がまわる
          私はあなたのなかで透明な海になり
          あなたは私を渡る虹のかなしみになる

          
          カモメが海の秘密をしゃべり
          砕かれた貝がらの浜辺がつづく
          私はあなたを呼ぶ海の混沌になり
          あなたは私を染める大きな夕焼けになる


          カモメたちの死ぬ島に行きたい
          暗い海に沈んだ
          花びらのような過去の島に

    
     (これははるか以前に書いた詞ですが、堤政雄さんの作曲でCDにも入って
     います。一部でけっこう愛唱された曲です。今読むとなんだかはずかしい
     けれど。)
    

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2005年06月03日

リョコウバトへ


リョコウバトへ

とだえることのない雲のように
大陸を渡りつづけた
あのリョコウバトの群れが
或る日 ふいに消えて…
宇宙はしーんと目を閉じた

「みんな どこへ いったの?」
ただ一羽 取り残された マーサの声が
いま こだまになって戻ってくる
「どこへ いったの みんな?」



この天体が きらきらと夢見た
たくさんの いのちたちが
砂時計の底へと落下していく…

…その音が
たえまなく足もとに響いてくる…
ヒトの住む
青いガラスの虚空




リョコウバト:その渡りによって、3日間も空を覆いつくしたという、北アメリカの
渡りバト。乱獲により、100年ほどであっけなく絶滅した。野生の一羽が最後に
撃たれたのは1907年9月23日。動物園でマーサが死んだのは1914年だった。

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2005年05月29日

そして 一匹も


そして 一匹も



クリスマスの日に
その島が発見されたとき
島はジネズミたちの天下だった

だがそれも
《クリスマス島》に
ヒトが住みつくまでのこと…



いまごろ
クリスマスジネズミたちは
歯ぎしりしていることだろう
「クリスマスってやつは不吉だよ」と…

かっては
天国だったあの島を
もう一つの天国から見下ろして




クリスマスジネズミ:1643年のクリスマスの日に発見された
クリスマス島に、その後200年以上にわたって、はびこっていた
トガリネズミの仲間。1900年に人が移り住んで、8年後にはもう
一匹もいなくなったという。その理由はいまも不明。

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2005年05月25日

プレイバック


プレイバック



空の果てには
永遠に回転するテープがあって
この世のどんな物音も
いっさいがっさい録られているとか…

(蛾の羽音も… 星の爆発も?)
だったら 私は 生き残ろう
永遠よりも ちょっと後まで

そして宇宙のテープを巻き戻そう
ひとり 静かに!

グアダルーペの 島の空へ
ひときわ高く響いたという
カラカラたちの最後の声…
あのタカたちの 命のこだまに
せめて この耳で触れるため




グアダルーペカラカラ:グアダルーペ島に住んでいたタカ。小動物や虫を餌
としていたが、死んだヤギの肉も好んだ。そのためヤギ殺しの犯人にされ、
1900年までに銃や毒薬で一掃された。大声の騒がしい鳥だったという。

投稿者 ruri : 11:39 | コメント (1) | トラックバック

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2005年05月21日

オーオーの空


オーオーの空



ハワイオーオーたちが
この世に残したもの…
それはうつくしいケープ?
それとも魂のぬけがら?

森を 花を 蜜をなくし
その黄と黒の羽毛をなくし
一枚のケープに織られ
ヒトに着られ 商われ…



つばさを失ったものたちが
どこかの星にたどりつこうと
今このときも
けんめいに はばたいている…
羽音のやまない
この私たちの空




ハワイオーオー:今世紀ハワイで絶滅した鳥。流行のケープ用に乱獲
され、羽毛は土産品となり、その棲む森も開発されて滅びた。
ケープの一枚が1万8千ポンドで売られたという。

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2005年05月20日

クアッガの星


クアッガの星



100年先の ある夏の日にも
だれか憶い出すかしら?

クーアッ クーアッと いななきながら
地平線を 雲母のようにあゆんでる
クアッガの まぶしい群れのことじゃなく

二頭立ての馬車を曳いて
ハイドパークを駆け抜ける
お利口さんの クアッガたちのことじゃなく

100年前の ある夏の日に
檻の中から ひとりさびしく旅立った
しんがりの おばあさんクアッガのことでもなく

しましま頭巾の クアッガたちをのせ
銀河系を回っていた 草原の星
太古からきた たった一つの星のことを




クアッガ:前半分だけ縞模様のウマ属の動物。狩りたてられて、
19世紀に絶滅した。その名前はかん高いなきごえからきている。

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2005年05月19日

ステラーカイギュウへ


ステラーカイギュウへ



かつて北極海に遊んだ
草食の人魚たちよ

その消息が絶えて
二世紀は とっくにたったけど…
ゆうべ 夢の深い水底で
海草を食んでいた あの後姿は
たしか君たちじゃなかった?

(もし あれが正夢ならば!)
君たちは 海の底へと 銛を逃れ
ながーい ながーい 夕餉のときを
のんびり 楽しんでいるんだね

ごわごわのひげ
しわだらけの皮膚をそのままに
「もう人魚のふりなんてまっぴらさ」って




ステラーカイギュウ:1741年、博物学者ステラーによってベーリング海で
発見されたジュゴンの仲間。10メートルほどにもなるが、おとなしい海牛で、
食料となり、絶滅したという。1768年に最後の1頭が殺された記録がある。

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2005年05月17日

青レイヨウ


青レイヨウ

青レイヨウが
まだ地上にいた頃のこと…

アフリカの子どもたちは
夢の曲がり角なんかで
よくかれらと出くわして
その青みがかったビロードの毛並みを
そっと撫でてみたにちがいない

でも今は
子どもたちもそんな夢は見ない
記憶のなかに ぼんやり干された
灰色の毛皮に
おとなたちが ときどき
風を当てているだけだ



  青レイヨウ:青みがかった灰色の毛をもつウシ科の動物。死ぬとその毛並み
は灰色に変わった。美しい上、食用にもなり、17世紀末からのオランダ移民
の銃により、アフリカの哺乳類として最初に絶滅した。

投稿者 ruri : 12:34 | コメント (1) | トラックバック

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2005年05月13日

悪い夢


悪い夢

オオウミガラス50羽が
わたしを囲んでこういった

きいてくれ (きいてくれ)
ぼくらの 悲しいおはなしを

なぜぼくら (なぜぼくら)
北の島から さらわれて

なぜぼくら (なぜぼくら)
死んでも こうして立ってるの?

50羽の剥製たちの 眼のおくで
それぞれの海が逆巻いて

わたし…塩辛い夢のまんなかに
150年 立ったまま



オオウミガラス:水中は自由に泳ぐことができたが、飛べない鳥だった。
はじめはこの鳥のことをペンギンと呼んだ。
有史以前からの何世紀にも及ぶ殺りくの末、
辛うじて孤島に生き残った50羽も標本用に狩り尽くされて、
150年前に絶滅した。

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2005年05月09日

二羽


二羽

ホオダレムクドリの夫婦
今日も おそろいで 食事の支度

夫が自前のノミで コツ コツ コツ
たくみに 幹に穴をあける
妻が自前のピンセットで
すばやく 虫を引っぱり出す
さあ 楽しい食事の始まりだ…

鋭いクチバシと 器用なクチバシ
ふたりで1対の ナイフとフォーク
だから孤食なんてとても無理
毎日 仲良く食べようね
と、共白髪まで 暮らしたのに!

ああ、もし森が消えてなかったら
ふたりのつつましい食卓が
いつまでも そこにあったなら…



(ホオダレムクドリ:ニュージーランドの森にいた。
オスが短いクチバシで木に穴をあけ、メスが長い曲がったクチバシで
好物の地虫をつまみ出すチームワークで餌を取った。
森林が切り開かれ、1907年頃に姿を消した)

投稿者 ruri : 11:44 | コメント (0) | トラックバック

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2005年05月05日

オーロックスの頁


オーロックスの頁

この地上が 深い森に覆われ
その中を オーロックスの群れが
移動する丘のように 駆けていたころ
世界はやっと 神話の始まりだったのかしら

貴族たちが 巨大なその角のジョッキに
夜ごと 泡立つ酒を満たし
ハンターたちが 密猟を楽しんでいたころ
世界はまだ 神話のつづきだったのかしら

やがて 森は失せ
あの不敵な野牛たちは滅び去った
うつろな盃と 苦い酔いを遺して
破りとられた オーロックスの長いページよ
世界は それ以来 落丁のまま…だ



(オーロックスは長い角をもつ、大きな野牛。飼い牛の祖先。
ユニコーン伝説のもとになり、旧約聖書にも登場する。
  角はジョッキとして珍重され、その肉は食べられた。
1627年に最後の1頭が死んだ。)
 

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2005年05月03日

バライロガモに


バライロガモに

ワニやトラたちの群れる
ガンジスのほとりに
バライロガモよ
君は ひっそり ひとりずまい
空一面の 夕焼けでも眺めてたのか

今は流行らない
孤独な詩人みたいに
けれど 湿原は拓かれ
君たちの魂は どこかへ去った
風のような鳴き声と
うつくしい球形をした卵と
そこに秘められた
遺伝子のながい夢といっしょに

…そうして
町の市場にならんだ君たちの肉は
どんな味がしたのだろう
バラ色の夢が
飛び去ったあとで



(バライロガモはインドの湿原に、四月の繁殖期以外常に一羽で
 棲んでいた、頭部がバラ色の静かな美しい鳥。湿原が開墾され、
 今世紀前半に絶滅した。)

投稿者 ruri : 16:25 | コメント (0) | トラックバック

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2005年05月01日

はがきの詩画集から THE ONEーWAY TICKET 


THE ONE-WAY TICKET(片道切符)

遊星の上のレストランでは
鳥料理が流行っています
<滅びた生きもののお味はいかが?>
つかのまの雨の晴れ間に
虹を渡って
タイムトリップした人びとが
傘のしずくを切りながら
ドードー鳥をほうばっています

空の奥ではゴロゴロと放電がつづき
橋のたもとはうすれています……が
だあれも席を離れません
「次のお皿はなんだろう?」



    註( ドードーとはうすのろの意味。巨大化した鳩の種族で、飛べない鳥。
16世紀に発見されてから100年あまりで絶滅した)

「ドードーを知っていますか(忘れられた動物たち)」という絵本がベネッセから出ています。
画はショーン・ライス,文はポール・ライスとピーター・メイル。主としてこの2〜300年の間に
人間によって絶滅へと追いやられた動物たちが紹介されています。とてもうつくしい本です。
私は「夢を見てるのはだれ?」という題のシリーズで何年か前に、イラストと共に、
はがき通信を出したことがあります。そのなかからいくつか載せていきたいと思います。
絶滅の過程を追ってみると、それは現代にそのままつながっていて、その流れの音は
いっそう大きくなっているのでは…と思いながら。

投稿者 ruri : 15:02 | コメント (2) | トラックバック