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2005年11月30日

LEEUFAN展

昨日今日と、つづけて横浜美術館に「余白の芸術」展を見に行った。といっても、今日はうっかりものの私のことゆえ、昨日なんと館の正面におかれた特大の作品を見落として、それをまた見に行ったわけなのだが。リーウファンの作品世界のなかを歩いていると、なぜか心が非常に静かになって、日ごろの喧騒世界の表皮をくぐって宇宙の芯の部分に独りでこしかけているような気になる。
おおきな白いキャンヴァスにわずか3箇所、控えめな墨色でおかれた三つの点、あるいは木や石や鉄だけがぽつんと置かれている寡黙な空間。作品はあくまでも静謐であり、互いに宇宙的な関係性のなかで、交感し合い、響きあう…。
自己表現としての芸術という言葉に違和感を感じている私は、ここでは表現者もまた外からの声に見返され、相互的なこだまのような存在になりつづけていく場を感じて安堵する。(近代美術での作者という名の「主体」中心主義を批判)してきた彼の、このような「余白」の作品には、東洋的な感性をも感じつつ共感してしまう。21世紀芸術への指標のように、それらの作品たちは置かれているように感じる。
饒舌と過剰とスピードの喧騒世界の一角で、LEEUFANの静けさに浸った私は、帰りに彼の詩集を買って読みながら帰った。
          

               《余白とは
                空白のことではなく
                行為と物と
                空間が鮮やかに響き渡る
                開かれた力の場だ。
                それは作ることと
                作らざるものが
                せめぎ合い、
                変化と暗示に富む
                一種の矛盾の世界といえる。
                だから余白は
                対象物や言葉を越えて、
                人を沈黙に導き
                無限に呼吸させる。》

                         LEEUFAN展のカタログより 
                   
                                  李禹煥の言葉     

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2005年11月26日

ペンクラブの会

東京會舘での「ペンの日」懇親会に出席した。入会して2年経つが、出席は初めて。ペンクラブ創立七十周年を記念しての祝賀会です。初代会長島崎藤村に敬意を表して、藤村の詩の朗読とチェレスタの演奏がはじめにあった。その後会長の井上ひさしさんによる挨拶(現代の国際情勢のなかでの日本ペンクラブの果たすべき役割の重要さなど)、辻井喬さんのスピーチなどあり、乾杯の後、懇親会に移る。
私は作家の秦恒平氏や何人かの顔見知りの詩人の方たちと会い、横浜詩人会の宗美津子さん、富永たか子さんなどとひさしぶりにゆっくり情報交換ができた。ペンクラブのメンバーとして先輩なので、なにかと教えていただいて感謝。(たとえば会場で評判のおいしい料理はなにか!)まで。

さてその日の目玉でもあった福引のこと。何百人もの会場の熱気に包まれてくじ引きが進行。私は資生堂のオードパルファム《ローズルージュ》があたりました! ブルガリアンローズのエッセンスから生まれたという、その赤いバラの香り…。そしてローズ色の壜のデザインもなかなかすてきで、籤にはあまり強くない私にしてはラッキーでした。

というようなことばかり書いていてはちょっとまずいかもしれないので、さて今夜から締め切り迫るヒポカンパスの作品のために、気をとりなおし、ペンを執りなおさなければ。

投稿者 ruri : 10:47 | コメント (3) | トラックバック

2005年11月19日

近藤起久子詩集「レッスン」より

                波   
                                近藤起久子

            土手を走っていく
            七月の朝の電車は
            がらんとして      
            下から見ると
            どの窓にも
            ゼリーのような青空が
            ならんでいる


            土手は夏の草でぼうぼうだ


            波のように風がたち
            青い朝顔を
            いくつもゆらしていく


            裏から透かしてみれば
            今日だって懐かしい


            波の下から見る
            光の景色だ   
  

(これは近藤起久子さんの「レッスン」という詩集に入っていた詩。”裏から透かして”みる目があったら、ずいぶん生きられる領分が違うだろう。この2行で詩がふいにみずみずしく私の中に流れ込んでくる。私もきっと”懐かしい今日”をたったいまも生きているのに…と気がつく。)

               
             倍音

                                   
            桃の花が咲いた

            
            枝には
            雪のつもった枝が
            かさなっている


            水色の春の空

             
            その空に
            灰色の冬空が
            かさなっている


            笑ったこどもの顔に
            泣き顔がかさなっている


            それから
            日のあたる橋にかさなる
            死体だらけの橋


            ふりかさなったことばで
            指あみするように
            おばあさんが話している

            
            すこしずれたところは
            モアレみたいな
            網目模様になっている


(今日、私の中には、どのくらい、ふりつもったり,かさなったりしたものがあっただろうか。いつか言葉になりたいものたちのかすかな身じろぎ…。)          

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2005年11月17日

いちにち

だんだん寒くなってくる日々。日差しが毎日室内へと深く入り込んでくる。
バルコニーに出していたベンジャミンの鉢植えと、マダガスカルジャスミンを室内にとり入れる。ベランダの柵に長々と絡み付いていたジャスミンのつるをパチパチと切って、少しずつ鉢を動かす。すると驚いたことに長さ10センチ以上もありそうな立派な実が外側にぶら下がっているのを発見!暑さのなか見えないところでがんばっていたんだと感激。柵の内側にも一つ実がついているので、大事に取り入れる。きっと来年の秋には二つの実が熟して、ある日突然パカン!と割れて、種をいっぱい風に飛ばすだろう。

家の中を掃除し、洗濯物をとりこみ、大地からの食料を整理するともう夕方だ。秋の日はなんて短い。

Dさんから美しい絵葉書がとどく。Kさんと電話で詩についてのある評論のことをいろいろ話し合う。詩人でない人から、現代詩についてのまっとうな意見をきけるのはまれで、これはありがたいこと。

食事の後、近藤起久子さんの詩集『レッスン』と、月村香さんの『牛雪』を読む。それぞれに印象に残る作品があり、またそれについて書きたいと思う。

静かな秋の一日、寒くなっていく一日。鶏インフルエンザのニュースがしきり。

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2005年11月13日

詩と音楽

昨日は、「詩と音楽」のシリーズの4回目を聴きに行った。「シェイクスピアからワールドランゲージへ」というテーマで、ピーター・バラカンの解説で、アントネッロというグループの古楽器による演奏や、詩の朗読、古典的な踊りなどを見る。コルネット、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロとハープの響きはとても優雅で、シェイクスピアの十二夜からの歌や、ヘンリー八世のアン・ブーリンへの恋文、魔女の踊り、「流れよ、我が涙」の演奏など古典的世界に浸った後、2部ではスティングやビリー・ジョエルの曲まできけてバラエティ豊か…。
4回分のチケットを買ってどれも愉しんだが、一番印象に残ったのは最初の「モンゴル〜草原をわたる風」の馬頭琴の演奏と朗読だった。このような企画をまた来年もたてて欲しいと思う。

今日は3年ぶりくらいで京都の友人加藤廣子さんを横浜に迎えて、中国茶など飲みながらいろいろと近況を話し合った。彼女は ビーンズというグループでオカリナを吹いている人なので、演奏活動の話や、音楽や詩の朗読に関する話をする。違うジャンルの人の話をきくのはおもしろい。ブログをはじめるというので、それも今後のたのしみの一つになる。

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2005年11月11日

橋本征子詩集「破船」より

今日は橋本征子詩集「破船」から詩を一つ紹介したい。この詩集の詩はどれも魅力的なので一つを選ぶのは難しかった。

                   破船

           吹雪のやんだ朝 ずるっずるっと雪
           が軋る音がする 急いでカーテンを
           開けて見ると 雪の庭に一艘の破船
           が流れついていた 枯れ木に積もっ
           た雪が 時折風に吹かれて剥げた水
           色のペンキの舳先にかかり 光を取
           り戻した無数の星が いっせいに壊
           れた船板の上になだれこんでくる
           めぐりめぐって ようやく辿りついた
           記憶のかけらが散乱しはじめる

           
           初潮をみた頃 少女は爪が伸びるの
           が早くなって学校へ行けなくなった
            ブランコを漕げば 赤いサンダル
           の足の先から爪が空に届きそうに伸
           び 鉄棒に逆さにぶらさがれば白い
           セーターの手の先から爪が地に着き
           そうに伸び 少女は自分の命のみな
           ぎりあふれるようすに脅えて すで
           に眠りに着いた死者たちの隠れ家を
           探して歩くのだったが 決して見つ
           けることはできなかった 乳房が穫
           れたてのレモンのように張った夜は
            ことさら爪が伸びる そんな夜は
            少女は爪をしゃぶってふやかして
           から前歯で力一杯噛みちぎり 空の
           金魚鉢で燃やすのだった 薄桃色の
           爪がちりちり焦げて一瞬ぱあっと炎
           の花びらとなる ガラスの底に沈ん
           だ一条の黒い灰 火傷した時間の落
           下 つるりと剥きでた指の先にはか
           すかな海の匂いが漂い 胸の奥底に
           は行き先のわからない一艘の船が通
           りかかるのだった

           
           いったいいくつの夏が過ぎたのだろ
           うか わたしは人気のない廃れた漁
           港につながれた一艘の船を見続け
           ていた 波は船を滅ぼそうと企み
           月も星も船を沈めようと誓いあって
           はいたが 船はただゆったりと浮ん
           でいるだけだった だが どんな黙
           契が船を隠したのか わたしがみご
           もった明け方から 船はいなくなっ
           てしまったのだった


           吹雪の朝 わたしのところへ漂流し
           てきたあの破船 長い年月に帆は千
           切れ 竜骨もひび割れ 破船となっ
           て現れた一艘の船 この舟は 死を
           含んだ海の指が わたしのところへ
           押し流したものなのだろう 海の底
           の花咲く深い眠りの到着点へとー


(橋本さんのこの詩集を読むたび、その独自の身体感覚と、暗喩に満ちた宇宙性に引き込まれる。人は身体の内部にこんなにも不可解な宇宙を隠しているのだ。
またこの詩の2連を読むとき、私は村上昭夫の「動物哀歌」のなかの「爪を切る」という詩を思い出す。伸びる「爪」に人は生きることの原罪を感じることもあるのだと。)           

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2005年11月10日

”絵葉書”

「SOMETHING 2」(鈴木ユリイカさんの編集・発行)が送られてきた。20人の女性詩人の作品が載っている。世代や地域や詩誌の枠を超えて、いろんな詩を書く人たちが集まってそのたびにメンバーも変えながら、今後も出していく予定であると聞く。同人誌の枠をこえようとするこのような試みは新鮮でもあり、今後もこの方法を生かしてよい詩誌を出しつづけていってもらいたいと思った。いままで名前を知らなかった方たちの作品に触れることもできるし、またよくその名を知っている方たちの作品を読み直せる喜びもある。

たくさん印象に残った作品のうち、今日は岬多可子さんの詩の一つを紹介したい。

           絵葉書

明るいオレンジ色の布に覆われている春
果樹の花が咲き
動物たちが 大きいものも小さいものも
草を食べるために しずかにうつむいたまま
ゆるやかな斜面をのぼりおりしている

家の窓は開いていて 室内の小さな木の引きだしには
古い切手と糸が残っている
みな靄がかかったような色をしている
冷たくも熱くもないお茶が
背の高いポットに淹れられて
それが一日の自我の分量

遠くからとつぜん 力のようなものが来て
その風景に含まれているひとは
みんな一瞬のうちに連れて行かれることになる

以前 隣家の少女を気に入らなかったこと
袋からはみ出た病気の鳥の足がいつまでも動いていたこと を
女は思う

春のなか
絵葉書は四辺から中央部に向かって焼け焦げていく


(静かでのどかな絵の中に孕まれている見えない恐怖感。どこかに現代という時代の影がさしているようで、それはまた、屈折した個人の意識下からのぞく不安の影のようでもある。説明のない分、いっそうイメージの表現力を感じさせる。)

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2005年11月06日

草原の祝祭

町田純のヤンのシリーズは不思議な魅力をもつファンタジーだ。物語というよりは独白体で際限なく語られる夢みたいでもある。ヤンの絵がとてもいい。後足で立って歩く孤独な猫のヤン。その背中の表情の豊かさ…。その背中を吹く草原の風の響き…。

「この一瞬の刻(とき)を大切に…」と、ヤンは思っているらしい。そのような一瞬はなかなかやってこないのだから、いっそう大切にしなければ…と。

「草原の祝祭」のなかに、今日はこんな文を見つけた。
「結局楽しいことや愉快だったことの記憶は、ある程度の年月がたつと、すべて哀しみのガラス玉にとじ込められてしまって、思い出すごとに、一つ、二つ、三つと、大きな広口びんに入れられていくんだわ。そして、こういったたくさんのびんは、それがどこにしまわれたのか、誰も覚えていないの。
ところが、寂しさや哀しさの記憶は、清冽な川底に散らばる、さらさらした白っぽい長石や、透明な石英の粒子のように、ときどき高まる意識の流れに舞い上がったり、無意識の淀みに沈み込んだりしながら、少しずつ、気が遠くなるほどゆっくりに、生涯の最期の河口に向かって、流され、進んでゆくの。
だから、死ぬ前に蘇る全ての記憶は、哀しみの記憶なのよ」
「でも、こうやって最期の時まで磨かれた、寂しさや哀しみの記憶ほど美しいものは、これほど美しいものが、ほかにあるかしら!」
これは草原を走る汽車のなかである女性に語らせている言葉だ。

私も夢のなかでときどき、しまい忘れた小さなビンなどを見つけることがある。それは目覚める前に、また意識の彼方の闇へと運び去られてしまうのだが。あるときは、ビンのなかに小さな魚たちが泳いでいたり、あるときはその底にわずかな水だけが光っていたりする。あれは私の遠い歓びや楽しさの記憶の結晶でもあるのだろうか…。

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2005年11月03日

三千院

奈良で正倉院展を見た。2、3年ぶりかもしれない。秋晴れに恵まれた一日。博物館を出ると、ナンキンハゼ(通称?)の大木の紅葉と白い実が午後の陽に映えて、とても美しい。奈良公園にもその時間は人影が少なく、鹿に餌をやる旅の人がちらほらいるくらい…。しばらくベンチでのんびりする。

翌日は京博で「最澄と天台の国宝展」を見る。延暦寺の聖観音立像をはじめ何体ものすぐれた仏像にお目にかかれた。(私の好きな運慶作の円成寺大日如来の面差しに似た横蔵寺の大日如来なども。)その道のプロである連れにうるさく説明を求めつつ、昼前までかかって、ゆっくりと見る。相棒がそうであるからといっても、私は門前の小僧までもいかない知識なので、今回ははじめからその気になって、仏さんとじっくり相対した。最澄と空海についてももっと知ってみたくなる。書物でだけでなく具体的な作品と引き比べて見ると、面白みが増すのかもしれない。

午後は大原の三千院まで行って、紅葉の走りに触れた。けれど一番印象的だったのは、国宝の往生極楽院(阿弥陀堂)の御堂だった。もちろん阿弥陀三尊はすばらしかった。が、その御堂内部の船底天井や垂木が群青などの美しい極彩色の花園の図で彩られていることが、去年の赤外線による調査で判明し、その一部残された部分を照らして見せていただけたのがなにより印象的だった!まるで感じが違うのでびっくりする。来年は御堂を別の場所に復元模造して公開する由。
その頃の人々はこのようにも華やかで色彩溢れる極楽浄土を夢見て、阿弥陀様に導かれて成仏するイメージを抱いていたのだなあ…と。いま私たちのみるその頃の仏像の多くが、このようにも金ぴかであったり、極彩色であったりしたのだから、なんという美意識の差だろう。日本的といわれる,ワビ、サビの感覚について、あらためて考え直してしまった。

それにしても、三千院の境内は丈高い木立のなかの空気がひときわ澄んで、すがすがしい。
今回は、短いがよい旅をした。何年ぶりかで、京都に住む旧友?のKさんと電話で話し、近い再会を約したことも嬉しいことの一つだった。

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