音大から入試の取材依頼が来た。はっきりとした約束をしないまま、入試当日にふらりと音大を訪れる。日曜日だったので、ジーンズを膝までまくりあげたままだ。玄関で慌てて身だしなみを整える。
入試会場は温泉ホテルのような場所である。ロビーで受験を終えた女子高生たちが数名おしゃべりの最中だ。靴を脱いで上がる座敷の前で強面の男がガードしている。その男を避けて座敷の方に身を乗り出し、「たつみ先生はいますか」と声をかける。なんだか難しい漢字だったので、「たつみ」と読むのかどうか自信がなかったが、正解だったらしい。横にいた女性事務員が「はい」と笑顔で応じてくれる。
たつみ教授は椅子に座って冷然とした顔をしており、なんだか取りつくしまがない。取材できることになったが、筆記具を持ってきていなかったので、床に転がっていた鉛筆と紙きれをさりげなく拾う。「ピアノ科の受験生は10名もいないのがこのところ毎年なんですよ」と教授が言うので驚く。「では受験者不足を解決するために、ピアノ入試のレベルを下げるか、授業料を値上げするか、どちらかですよね」とぼくは質問する。すると教授は沈黙してしまい、長考に入る。ぼくらが向かい合うテーブルは川の中にあり、メモ用紙は水面下だ。鉛筆を走らせても文字が滲んでうまく書けない。紙の上にメダカのような小さな魚が沢山集まり、ますます書きにくい。メモ用紙がいっぱいになったので、慌てて床に落ちている紙を探すが、どれも裏にも文字が書かれていて、メモ用紙には使えそうにない。