ツトム君の電車

ツトム君の電車
「先生!」
 生徒の絵を見回っていた私の背後から、勢いのよい一つの声。
「先生!僕の宿題も見てよ!」
 宿題というのは、二週間前に、
「何でもいいから好きなモノを描いてきましょう。」
と、言っておいたことだった。
 声の主は、何でもかんでも堂々と描くツトム君。私は、この子の絵が何故か好きだった。小学二年生の絵に、遠近感や陰影を求めるのは無理と分かっているのですが、このツトム君の絵は、本当に我が儘に出来上がることが多かったのです。
 秋の写生大会においても、奥山寺という寺を描きに行ったのに、ツトム君は画用紙いっぱいに鬼瓦だけを描いたり、姫路城を写生に行っても、近くの動物園まで歩いて行って、孔雀を描いたり、絶対に人の言うモノを描かない子でした。(しかも、その鬼瓦は恐ろしい形相をしているくせに、全色ピンクなのです。)
 しかし、仕上がる彼の絵は、どんな時だって迷いがなく、いきいきとして、人をうち負かすような熱意が感じられました。他人を振り向かせる程の自信と、常に激しく自己主張する彼の絵が、私は好きだったのです。
 だから、ツトム君の宿題を見た時、正直ひどく落胆しました。何故って、彼の画用紙には、今にも廃車になりそうな黒い小さな電車が、長い長い線路の上に横たわっているだけなのですから‥‥。
「ツトム君、これが君の好きなモノなの?」
「うん。」
「何だか寂しそうね。」
「寂しい?違うよ。先生。この電車は今から出発するんだよ。」
「中には人がいないみたいだし‥‥。」
「だって、乗り物酔いするからって、お母さんが乗っちゃいけないっていうんだもん。」
「じゃ、絵の中だけでも乗せてあげたら?」
「ダメだよ!電車の中はきっとつまらないよ。外から見てるほうが絶対かっこいいよ。」
熱っぽい口調でしゃべり続けるツトム君。私はただただ曖昧な返事をしました。
「そんなものかしら?」
「そうだよ先生。それにこれは僕の為の電車だから、誰も乗っちゃいけないんだよ。
 ツトム君の宿題は全部で四枚。
 どうやら電車シリーズは続くみたいです。彼は二枚目の電車の絵を私に見せました。
 なるほど、二枚目の絵は一枚目に比べて楽しそうです。まず電車がはじめのものより、ひとまわり大きくなっていること。次に辺りが、大きな木と花や田畑に囲まれていること。そして山沿いに家があって、小さな少年が手を振って喜んでいること。
 どれをとっても明らかに以前の寂しさは消えていました。画用紙の上はツトム君の幸せでいっぱいです。
「楽しそうな絵ね。」
「電車が僕の町にやって来たんだ。ここまで来るにはきっと、たくさんの木や花を見て、僕の知らない道を通ってきたんだ。」
「だからこんなに、賑やかなのね。」
「そう。この電車は、僕の夢に向かって走ってるんだよ。」
 そう言うツトム君の顔は、本当に幸せそうでした。
三枚目の電車は二枚目よりさらに大きくなっていました。どうやらツトム君の電車は成長しているようです。景色は二枚目とほとんど変わっていませんでしたが、山沿いにいた少年が電車の傍で大きく描かれていました。
「この男の子はツトム君なの?」
「うん。」
「前より大きくなっているわ‥‥どうして?」
「それはね‥‥。」
 ツトム君はその時、今まで見せたことのない不思議な冷笑を浮かべました。そしてひどく無防備な仕草で、ゆっくりと三枚目の絵をめくりました。
 下から現れたのは、画面いっぱいに描かれた真っ赤な電車。今にも爆音が聞こえてきそうな暴走する赤い電車だったのです。
 線路はありません。風景もありません。人もいません。
 自然や生命からかけはなれた赤い人工物が、悪魔の玩具のような姿で画用紙にベッタリとはりついていました。
 うまく描かれていました。スピード感もあって、細部まで細かく描かれていて‥‥。
 けれど私はただ黙ってその電車を見る事しかできませんでした。もしかしたら私は恐ろしい顔をしていたかもしれません。
 ツトム君が私の顔を笑って見つめています。どうやら、自分の最高傑作に対する誉め言葉を心弾ませて待っているのでしょう。しかし、私はこの電車が赤い理由を知っているから、何も言えませんでした。おそらくツトム君は大好きな電車の前に飛び出したのでしょう。そして、これが彼の夢なのです。
 私の言葉は、明らかにツトム君の期待を裏切るものでした。
「痛かったでしょ‥‥?」
 恍惚な表情を浮かべていた彼の瞳は、私の言葉を前にして、いくらかその色を失いました。そして、黒い瞳をますます黒くして過剰の熱意をもって語るのです。
「どうして?先生は好きなものを描けって言ったじゃない。好きなものと一緒になったのに、どうして痛いの?」

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