「コスモス」

ユーミンが荒井由美だった頃、「晩夏─ひとりの季節」という曲を出し、衝撃を受けた。その中に、「秋風の、心細さはコスモス」という一節がある。コスモスは、一、二本でも群生していても、風に揺れている花だ。風が通り抜けやすいように葉も細い。茎も細くて折れやすいので、花瓶に活ける時は単独で、咲き乱れるまま放り込んでおく。
コスモスを描いたことがあるが、意外に難しかった。しっかりと描くと「心細さ」は出ない。4H〜8Hの薄い鉛筆で「軽く軽く」と心掛ける。外側にある八枚の花びらのようなものは「舌状花」で、一辺がギザギザの長方形だ。中心にあるボンボン状のものは「筒状花」の集団で、これを見ると確かにキク科だ。そして半ば開いたコスモスを横から見ると三角形に見えるから、コスモスは、円や長方形、三角形が隠れた、不思議な「宇宙」ということになる。
我が家では娘が十月生まれで、毎年、誕生日に送っているうちに、コスモスは娘の花になった。幼女から少女へ、中高生から学生へと娘が成長する間、コスモスは秋の誕生日を華やかにしてくれた。娘は長く留学していたので、その間、花を送ることは出来なかった。別のものを送ると、外国から礼状が届き、「友人がコスモスの花束をかかえてきてくれました。」「友人とコスモス畑へ行った時の写真です。」と、コスモスを介しての繋がりが続いているようだった。母国を離れ、辛いこともあっただろうが、コスモスのおかげか、娘は乗り切った。
私はコスモスを見る度に、遠くに居る娘のことを想う。
かなたにあって、私によく似た、もう一つの「宇宙」のことを─

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「玉井國太郎さんのこと」

「ユリイカ」9月号に、昨年春50才で逝った、玉井國太郎さんの詩6篇が載り、多和田葉子さんが追悼の言葉を寄せていらっしゃいます。
私は玉井さんをジャズ・ピアニストとして知りました。1980年代、私は鉛筆を使って身の回りのものと向き合い、じっくりと対話していくという仕事をやっていて、その傍ら、鉛筆の線を走らせることで瞬間をとらえ、二つを対比させて「時間」を目に見えるものに変えてみたい、と思っていました。「line—line」と名付けた、この「線のデッサン」をするために、あちこちのライヴ・ハウスで色んな音を聞かせてもらいましたが、透明な音の粒が疾走していくような玉井さんのピアノは、私の求めていたスピードに合致していました。
玉井さんが詩も書いていらっしゃる、ということは、詩人の、故・永塚幸司さんに教えていただきました。永塚さんが H氏賞をとられる前後だったと思います。永塚さんは、玉井さんの詩を、心から尊敬していらっしゃいました。また玉井さんは、永塚さんの死を、涙を流して悔しがっておられました。二人とも、類いまれな才能に加えて、「決して群れない資質」を持っていらした。
生き急いだ二人のことを思うと、「孤独」は人の心を蝕むのかもしれません。しかし、「表現」と「孤独」は切っても切れない関係にある。永塚さんの詩も、玉井さんの詩も、個人の「孤独」を突き抜け、全ての人の中にある、生きること自体への「寂寥感」に到達していると思えてなりません。それは西脇順三郎氏の言う「詩情」—神秘的な「淋しさ」—に近いものではないでしょうか。
彼らはちゃんと仕事をして逝きました。私は、残った者として、どれだけの仕事ができるのかと思います。
  
「ルフラン」                玉井國太郎
てのひらのうえ
漂流する恒星たちの
少しずつ違うひとつの名前を
泡立つ空隙のへりに
呼びとめる
明日もまた—
空に向かって
墜ちずにいることの痛みに耐えている
ただひとりの夢のなかの
ひとりひとり
歩み続けることに
深々と食い込み
消え去る重みをなくした沓音
世界を曇らせない息
の多面体
みずの悪意に染め抜かれて
みだらな青に座礁するくちびる
二度目には
氷晶に似るもの
「世界のいたるところで花が咲きました」
時の畝に
色とりどりの
痛ましい楔
うたうことのほてりが
つめたい石の影にくるしみ
ふるえて
    風を生み
        おちる
包み合うことの
重みにつかれて
世界のいたるところで
ほのおが
絶え間なく手を孕み
虚空に振り付ける
花の住み処
挿し入れられた徴しを刻んで
耳は翼を持つ
ひとつしかない名前の下で
燃えさかるため
明日もまた—

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「完成の後—2」

200号が出来上がって一週間—いわゆる「ハイ・テンション」が続いていたのか、いつでも、どこでも、しゃべり過ぎました。昨日から、ただもう疲れ果てた、という風に沈み込んでいます。
もうすぐ—自分とまったく切り離されたものとして、作品が立ち上がってくるはずなので、その時までに、体力と気力を回復させておかなければなりません。そして、以下のような詩を読んだ後、自分の絵を見つめ直して、それでもこれは存在する意味があるのか、と自問しなければなりません。恐ろしいし、辛いことです。
 
パウル・ツェラン小詩集から    
              「立つこと」      中村朝子訳
立つこと、空中の
傷痕の影のなかに。
誰—のためでもなく—何の—ためでもなく—立つこと。
識別されず、
ただ
お前だけのために。
そこにあるすべてとともに、
言葉も
持たず。

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「こうもり傘の実験装置」

  (一週間ほど留守にします。少し早いけれど、7月のブログとして、、)
科学者たちは「真理」という世界共通の基盤があって、科学雑誌に掲載されるべきかどうか、という判断は、様々な国の複数の研究者の査読によって決まる。投稿が主に英語で書かれる理由はそこにある。国も違い、会ったこともない人間から論文だけで判断される、ということが、何かとてもすっきりして、うらやましい気がして、「理系はいいよ、、、」と言ったことがあった。
すると、科学とは言っても、専門的になればなるほど、やっていることの意義が本人にしか理解できなくて、長い間、つまり判断基準が世界共通のものになるまで、それぞれの研究者は孤独な戦いを強いられる、と聞いた。世界的実験結果を発表した研究者をはるばる訪ねてみたら、その実験装置が、こうもり傘の骨組みを改造したお手製のもので、えっ、これで?と驚くようなことがあるそうだ。
自分がきっと何かある、と信じているのだから、きっと何かある、、、この単純な信念を貫いた人がいたからこそ、人類の歴史は変わってきた。そして今も、どこかで、パイオニアたちが社会の冷ややかな反応や予算不足を克服しつつ、がんばっている、、、そう考えると励まされる。
美術は個人の感性や技術、そして思想に大きく支えられるものではあるけれど、根本的には科学の分野に重なるところがあると思う。こうもり傘を改造して実験装置を作るように、描いていけたら、と思う。

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「雨の唄」

雨の季節には「雨の唄」を聞こうと思う。「雨の唄」と言っても、人それぞれだろうが、私は多田武彦作曲の合唱曲「雨」に思い出を持つ。
中学に入った息子は音楽部に入り、初めての定期演奏会でこれを歌った。思春期に差しかかろうとしていた息子が、沢山のお兄さん達に混じって、一生懸命歌っている姿に、あ—もう安心だ、と思った。何が安心か、よく分からないままに、、、
この曲は多田武彦が複数の詩に作曲した無伴奏の男性合唱曲で、6曲で構成される。今は、ありがたいことに、 you tube で聞くことができる。
多田武彦 作曲  「雨」
第1曲 「雨の来る前」 作詞 伊藤 整
   http://www.youtube.com/watch?v=txdl93UNkWI&feature=related
第2曲 「武蔵野の雨」 作詞 大木淳夫
   http://www.youtube.com/watch?v=Xtfko_AoDys&feature=related
第3曲 「雨の日の遊動円木」 作詞 大木淳夫
   http://www.youtube.com/watch?v=Bm-PKOdgATU&feature=related
第4曲(初演版) 「十一月にふる雨」 作詞 堀口大学
   http://www.youtube.com/watch?v=mZnUa_FJZ3k&feature=related
第5曲 「雨の日に見る」 作詞 大木淳夫
   http://www.youtube.com/watch?v=iHSop-OfkGw&feature=related
第6曲 「雨」 作詞 八木重吉
   http://www.youtube.com/watch?v=DLWdz4VR-10&feature=related
第1曲の「ざーっとやってこいよ、夏の雨」というスカッとした導入も見事だし、第4曲「11月はうら悲し」という男性ならではの低音の響きや、第5曲「ざ・ぼんが、、、」という、香りが漂ってくるような音の連なりも魅力的だ。第3曲「遊動円木」とは、「丸太ブランコ」のようなものか、、、古風で、いい言葉だ。
息子は、今はもう私の手を離れた。私は第6曲「雨」が、しみじみと心に染みる年になって、この季節には時々聞いている。
息子よ、あの一筋の気持を覚えているか、、、息子よ、、、

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「絵の大きさ」

1990年代の現代日本美術展には大きな絵が多かった。不況の続く最近は、売買しやすい小さな絵が多く、現代美術にとっては残念なことだ。
小さな絵にもすばらしいものは沢山あるし、小さな世界に大きな宇宙を見ることも確かにある。フランツ・マルクの「青い小馬の母馬II」(1913) は19.0cm × 14cm だし、エミール・ノルデの「橙色の雲」(1938-45)は 18.2cm × 16.4/7cm で、二点とも大好きな作品だ。
しかし、大きくなければ表せないこともある。人は小さな絵を見る時、そこに創造された世界に外側から近寄っていく。大きな絵は違う。まず、いきなり放り込まれ、そこから逃れたいと思ったり、あるいは、ずっと包み込まれていたいと思ったり、、、それは一つの体験だ。
1985年プラド美術館で見たピカソの「ゲルニカ」(1937)は、351cm × 781cm 。7m 近く離れないと全体が分からない。近寄っていくにつれ、全体の構図が消え、作品が「部分」になっていく。約116cm × 78cm (約50号)が、縦に3枚、横に10枚 、、、その一枚づつが作品として出来上がっており、マチエールが実に美しかった。近寄ったり、離れたり、、、つまり30枚を見たり、1枚にもどったりしながら、私は展示室に4時間も居てしまった。
ピカソは言う。
 いったい君は芸術家を何だと思っているのか。馬鹿者で、絵描きは眼だけしかなく、音楽家は耳しかなく、詩人ならば、心臓の各室ごとに竪琴をもっているだけ、ボクサーならば筋肉があるだけとでも思っているのか?
 大間違いだ。芸術家はそれだけではなく、世界の恐ろしい、激しい、あるいは楽しい事件にたえず反応し、すべてその像に従って自分を創り出す存在なのだ。
       (Picasso on Art, A Selection of Views)

1937 年 1月、ピカソは銅版画シリーズ「フランコの夢と嘘」(1937)を制作していた。6月にパリ万国博のスペイン館で発表するための作品を依頼されていて、ゲルニカ爆撃の知らせの3日後(5月1日)に、この大作の最初のデッサンに入った。今日はそれから74年後の5月1日に当たる。
ピカソの言うように、世界の事件に反応して自分の世界を創る、というのならば、この74年間に私たちが何を得て、何を失ったのかを考え、ピカソの時代にはなかった絵が生まれなければならない。現代美術の存在理由も、大きな画面が必要な理由も、そこにあるのではないか。

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「3月11日」

震災の日から、ずっと気が晴れない。戦後生まれの私にとって、こんな衝撃は生まれて初めてだ。とにかく自分にできることをやり続けなければと、絵に集中しようとしている。3月11日を境に、何かが大きく変わった。何がどう変わったのか、本当のところは、まだ、はっきりとは分からない。でも、その転換期に描いている、ということは「問われている」ということだ。身の引き締まる思いだ。
以前、個展にいらした、ある絵描きの人から、どうして「苦しみ」や「悲しみ」ばかりを描いて、「楽しみ」や「喜び」を描かないの、、、と詰め寄られたことがある。私は、それを言葉で説明することが面倒になって、じゃあ、あなたは「楽しみ」や「喜び」を担当すればいいじゃないの、、、と議論を打ち切ってしまったことがあった。
「苦しみ」や「悲しみ」と「楽しみ」や「喜び」は、元々、対比させるものではなく、分ち難く一体のものであり、それが人間のすごさだ。それを今回、つくづく思い知らされた。瓦礫の海と化した街に降りていって、「再建」を目指す人、、、自ら被災しながらも、他の人のために働く人、、、大切な人を失ったことに黙って耐えている人、、、皆、すごいなあ、と思う。その人たちも、日々の暮らしの中で、生きる「楽しみ」や「喜び」を見つけ出そうとしているはずだから。
私自身の経験では、「深い傷」というものは、受けとめることすら、すぐにできるものではない。目覚めた瞬間、全ては悪夢だったと感じ、イヤ現実だ、と張り裂ける心を、何とかまた繋ぎ合わせて、重い身体を起こす、、、毎朝、この繰り返しだ。「深い傷」を受けた人は、もう、その傷の上に残りの人生を築いていくしかない。何年か経って、一応、血が吹き出さない状態になったからといって、それを「克服」と呼べるのかどうか、、、美しい風景も、賑やかな笑いも、聞こえてくる音楽も、その傷ゆえに、いっそう美しく、いっそう愉快で、心に染みるのだ。
私はよくバッハのバイオリン・ソナタを聞く。 BWV1014 と BWV1017—クイケンとレオンハルトの音は、私の傷に染みて広がり、「祈り」になっていく。私の絵も、傷を受けた人にとっての、そういう存在になれたら、と願ってはきた。
しかし、今、私の「表現」が、私の想像を越えた「深い傷」を受けた人にとって、空々しいものになりはしないか、、、そういう思いに押し潰されそうになりながら、画面に向っている。

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「クラクフの午後」

ポーランドのクラクフに行った時は、ある版画家ご夫妻のお宅に逗留させていただく。すばらしい方たちで、出会えたこと、仲立ちをして下さった方に深く感謝している。
ある午後、ご夫妻は工房に出かけられることになっていて、「Naoはどうするの?」と聞かれた。私は前日オシフェンチェムとビルケナウの収容所を訪ねており、疲れ果てていて、「できれば家に残りたい。」と言った。そこで、ポーランド語しか話さないおばあさまと、まったくポーランド語が話せない私の、二人だけの午後が始まった。
おばあさまは80才を越えて、少し認知症が始まっていると聞かされていたが、目鼻立ちの美しい、威厳のある方だった。「3時になったら、母のためにお茶を入れてくれる?」と言われていたので、3時近く、私は台所にあった林檎と、前夜のワインの残りと、少しのバターで、ジャムを作った。林檎は、ヨーロッパで見かける小さな種類で、少し萎びていたのがよかったのか、透明でホロホロのジャムが出来た。ビスケットとジャムと紅茶で、おばあさまと一緒に3時のお茶を飲んだ。
外に広がる雪原を見ると、前日の光景が甦る。男3ヶ月、女1ヶ月、とカロリー計算して与えられる食事、、、名前の横に入所日と退所日だけが書かれたラベルの列、、、予定どおり、皆きっちりと消えていく。驚くべき合理性。しかし、時と場所と対象が違うだけで、その同じ合理性が自分の中にもあるではないか、、 
どこかボーッとしてお茶を飲んでいる私に、おばあさまが時折、「タック、タック、、、」と頷かれる。ポーランド語で、Yes、Yes、、、と言って下さる。
私はふと、おばあさまに手のマッサージをして差し上げようと思った。手をとって、日本の美容院でしてもらった記憶をたよりに、指、掌、手首、肘、、、とマッサージをしていった。すると、おばあさまは「オゥ、、、アゥ、、、」と、小さな喜悦の声を上げて、気持がいいことを知らせて下さった。
「アウシュビッツの後、詩を書くことは野蛮だ。」とアドルノは言った。絵を描くこともそうだろう。帰国後、半年は描けなかった。そして、その野蛮な行為を再開するにあたって、再出発の場所に、私の場合、ポーランド人のおばあさまと過ごした、静かな午後がある。

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「相原求一朗展」

暮れに大川美術館から「相原求一朗展」の案内状が届いた。帯広の中札内にある「デッサン館」を訪ねたのは2000年11月末、帯広は既に雪景色だった。10年ぶりであの作品に再会できるわけで、これは楽しみだと1月半ば出かけた。
今回は求一朗の初期から中期の作品が中心で、以前見落としていたことに加えて、自分自身の、この10年のことを色々と考えさせられる旅になった。「作家の人生」ということに、昔は関心が薄い方だったが、年のせいか、最近は少し変わってきた。
彼の絵は色が美しい。白から黒へと少しづつズレていくグレーのトーンがまずしっかりとあって、そこに赤や緑、また黄色を慎ましく滑り込ませてある。山や樹々、建物など、描かれてあるものは必要最低限、伝えたかったのは空気だ、と分かる。冷たくて、澄んだ空気が独特の寂寥感を出していて、気品がある。この人と同じ資質を、ブリジストン美術館で見たレオン・スピリアールトの絵にも感じたことを思い出した。求一朗の「トア・エ・モア」や港の風景はスピリアールトにどこか似ている。
私自身は大自然の中に自分を見つけにいくことはないと思うが、だからといって、彼の作品への敬意が減じることはない。人にはそれぞれ、ふさわしい場所があるはずで、スピリアールトの絵の中にも、求一朗の絵の中にも、私は自分自身を発見する。いつか、彼の後期の代表作「十名山」にも再会したいものだ。
この展覧会は3月27日(日)まで(財)大川美術館にて(桐生市小曾根町3-69、Tel.0277-46-3300)。
大川美術館のHP
都心から桐生までは充分日帰りできる。2月〜3月、展覧会の副題「春を待ちながら」に相応しい小旅行になると思う。初めて行かれる方は、浅草、又は北千住から赤城行きの特急「りょうもう」に乗って、新桐生まで1時間半(約2500円)。新桐生からバス「桐生女子高行き」で、約13分(200円)で桐生駅北口に着く。ただし、このバスは1時間に1本なので、Web上で、時刻表を調べ、特急の時間を逆算して出発するとよい。桐生駅からの道順は、美術館HPをご参考に。少々階段がハードだが、幼稚園裏の近道が便利。

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「マラマッド短編集」

出かける時は大抵、文庫本を一冊バックに入れていく。東京の真ん中に若くもない女が一人で出かけていくのは、それだけで結構気疲れするものだ。電車の中やカフェで、ほんの一時文庫本を開き、気力を補給する必要がある時もある。何だかんだで、その時間がない日もあるのだが、本を持っているのと、いないのとでは大違いだ。そして、もしそれが「マラマッド短編集」などであれば、まさに「万全の体制」と言えるだろう。
マラマッドは1914年、N.Y. ブルックリン生まれ。両親はユダヤ系移民だ。彼の作品は、しっかりした教養のワク組みと、そこからこぼれ落ちるものへの共感を同時に感じさせる。おおよそ短編は、最初の一、二行で読者を「状況」の中に放り込めるかどうか、なのだが、マラマッドの場合も、例えば「最初の七年間」の出だしはこうだ。
 靴屋のフェルドはしきりに物思いに耽っていたが、そんな彼には無頓着に、むこうの仕事台では助手のソベルが狂ったようにがんがんとたたきつづけていた。
それからいわゆる「虫の目」と「鳥の目」の両方で対象を捉えていく。靴屋のフェルドの夢と現実。そして助手のソベルの夢と現実。両方の要(かなめ)の位置に娘のミリアムがいる。助手のソベルは短編の最後に、やはりがんがんと靴の皮をたたいているのだが、事情が判明した後では、それがまったく違った音になる。
マラマッドの文章は情に流されることなく、リアリズムに貫かれているが、人間への暖かさを失ってはいない。翻訳者の加島祥造氏は「あとがき」で、彼の本質を「虐げられた人間をして最後に人間たらしめるものへの信念」と述べられている。
加島氏の言うように、マラマッドの短編に「人間の心を支える最後の支柱」があるとしても、なにせ短いから切り取ってくる場面は限られており、その支柱は、とても象徴的に伝えられる。日々の暮らしの瑣末なことの裏に隠れている支柱を軸にして、人々の生涯が大きく転回していくのだ。
そういうわけで、マラマッド短編集(新潮文庫)—この宝物をバックに入れているとしたら、やはり「万全の体制」と言えるのではないだろうか。たとえ財布の中は万全ではないとしてもだ。
明けまして おめでとう ございます。
今年も よろしく お願いします。  

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