「玉井國太郎さんのこと」

「ユリイカ」9月号に、昨年春50才で逝った、玉井國太郎さんの詩6篇が載り、多和田葉子さんが追悼の言葉を寄せていらっしゃいます。
私は玉井さんをジャズ・ピアニストとして知りました。1980年代、私は鉛筆を使って身の回りのものと向き合い、じっくりと対話していくという仕事をやっていて、その傍ら、鉛筆の線を走らせることで瞬間をとらえ、二つを対比させて「時間」を目に見えるものに変えてみたい、と思っていました。「line—line」と名付けた、この「線のデッサン」をするために、あちこちのライヴ・ハウスで色んな音を聞かせてもらいましたが、透明な音の粒が疾走していくような玉井さんのピアノは、私の求めていたスピードに合致していました。
玉井さんが詩も書いていらっしゃる、ということは、詩人の、故・永塚幸司さんに教えていただきました。永塚さんが H氏賞をとられる前後だったと思います。永塚さんは、玉井さんの詩を、心から尊敬していらっしゃいました。また玉井さんは、永塚さんの死を、涙を流して悔しがっておられました。二人とも、類いまれな才能に加えて、「決して群れない資質」を持っていらした。
生き急いだ二人のことを思うと、「孤独」は人の心を蝕むのかもしれません。しかし、「表現」と「孤独」は切っても切れない関係にある。永塚さんの詩も、玉井さんの詩も、個人の「孤独」を突き抜け、全ての人の中にある、生きること自体への「寂寥感」に到達していると思えてなりません。それは西脇順三郎氏の言う「詩情」—神秘的な「淋しさ」—に近いものではないでしょうか。
彼らはちゃんと仕事をして逝きました。私は、残った者として、どれだけの仕事ができるのかと思います。
  
「ルフラン」                玉井國太郎
てのひらのうえ
漂流する恒星たちの
少しずつ違うひとつの名前を
泡立つ空隙のへりに
呼びとめる
明日もまた—
空に向かって
墜ちずにいることの痛みに耐えている
ただひとりの夢のなかの
ひとりひとり
歩み続けることに
深々と食い込み
消え去る重みをなくした沓音
世界を曇らせない息
の多面体
みずの悪意に染め抜かれて
みだらな青に座礁するくちびる
二度目には
氷晶に似るもの
「世界のいたるところで花が咲きました」
時の畝に
色とりどりの
痛ましい楔
うたうことのほてりが
つめたい石の影にくるしみ
ふるえて
    風を生み
        おちる
包み合うことの
重みにつかれて
世界のいたるところで
ほのおが
絶え間なく手を孕み
虚空に振り付ける
花の住み処
挿し入れられた徴しを刻んで
耳は翼を持つ
ひとつしかない名前の下で
燃えさかるため
明日もまた—

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