「難波田龍起先生という方」

難波田龍起という方は、一度しかお目にかかっていないのに、何故か「先生」と呼びたい方である。1982年の初個展に、ある方の紹介でお見えになった。予想していなかったので、芳名帳を見てドキンとした。当時、私のような駆出し者の書棚にも「抽象」という白い本はあったから、わざわざの来廊に「ありがとうございます。」以外に、何と申し上げたらいいのか、分からなかった。そのような場合、正直に、素直に、という方法しか知らないので、「私の周りに居る方は抽象が多いのですが、私は『抽象』ということが、どうも本当には分からなくて、描くことができません。」と言った。すると難波田先生は、「あなたの、この絵の、ここが既に抽象、、、こっちの絵は、ここが抽象ですよ。」と、いちいち指さして教えて下さった。静かな時間が流れ、淡々とした印象だけ残してお帰りになった。
それから10年ほど経ち、私は銀座4丁目にあった日辰画廊で個展を続けていた。受付に居らしたI さんはいつもやさしくて、銀座に出る度に暖かく迎えて下さった。何度目の個展だっただろう、、言いたい放題、言い放つ、という風にして帰られた方が居なくなった後、シンとしている私に、I さんが「井上さんの絵は、日辰画廊の古くから居らっしゃるお客様に、とても好評ですよ。」と言って下さって、それから「本当にえらい方は威張ったりなんかしません。難波田龍起先生は、時々お見えになると、芳名帳に小さくお名前をお書きになり、小首を傾げて、小さな声で、『うまく書けなかった、、』とおっしゃって、お帰りになります。」と続けられた。一度きりなのに、忘れられない方のお名前が出て、昔の印象が甦った。
それから更に5年が経ち、作品が大川美術館に収蔵していただけることになって、何度か桐生に行った。大川美術館には、難波田龍起先生と、ご子息の紀夫さん、史男さんの絵のある部屋があった。そこで、龍起先生が、私が出会った82年には、深い悲しみを背負って描き続けていらしたことも知った。
難波田先生のことを思い出す度に、生涯、絵を描き続けて、かつ芸術家ぶったり威張ったりしないで、謙虚であり続ける、ということは、どういうことなのだろうか、と思う。大川美術館で見た先生の絵は、最近よく聞く「インパクト」というより、見る人と静かに出会い、様々なことを考えさせ、長く心に残る絵──そのお人柄そのものであった。

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