追悼ー大川栄二館長のこと

あれは1996 年 2 月のことで、桐生の大川美術館から、いきなりのお電話だった。私は不覚にも、その美術館の存在を知らなかった。「大川だけどね。今『超女流展』というものを企画していて、20名か10名かで迷っている。10名なら、あなたは入らない。」 そのストレートさに驚いた。 「はあ、、、」と言う以外、答えようもない。
その方が絵を見て変わられた。 「井上 直は下手やなあ、、、だが、いい絵だ。」 
それからは、ずっと、幸福なお付き合いをさせていただいた。 桐生に伺うと、館長室のソファーにもたれ、胃の辺りを押さえながら、これだけは言い残しておく、、、という風に始められる。 でも、だんだん調子が上がってきて、生き生きとした表情になっていらっしゃる。 「有名になろうとするなよ。 うまくなろうとするなよ。 何と言っても、絵は心だから、、、」お話は3時間〜4時間に及ぶこともあった。
私のような無名の作家の絵を、常設に加えて下さり、ご自身も、いつも見て下さったんだと思う。 「使者を待つ森」という、その絵は、自分の心をただ素朴に描いただけの世界だったのに、それを、そのまま受け取ってもらえた、という経験は、私の中の迷いや自信のなさを消した。 有名にならなくてもいいのだから、気が楽になった。 もう少し、うまくはなりたかったが、「心」あっての「技術」であって、逆ではないと思うようになった。
それまでずっと、毎日の現代日本美術展に出していたので、作品の「同時代性」ということを、及ばずながら、意識していた。 しかし、大川美術館を知ってからは、「時代を越えて残るもの」ということも、意識するようになった。
大川館長は私にとって、一人の人というよりも、絵の好きな人達の眼と心を代表する存在であった。 あの方達が居て下さる限り、私は描いていける、と思った。
最後にお会いしたのは2007年秋、館長室からご自宅にもどられるところに、偶然出くわした。 「あーあんたには会いたくなかった、、、」「はあ、、、」やはり何も言えなかった。
後に奥様から「あれは元気な姿で会いたかった、という意味です。」と、お便りを頂いた。
人は出会ったように別れるのだろうか。 あふれるようなロマンを持っていらしたので、荒々しい言葉でバランスをとっておられたのか。
館長が亡くなられたのは、昨年12月5日。 いかなるご縁か、私の生まれた日だった。

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