« 東京新聞. | メイン | いつもの人の. »

2008年10月04日

「人間の行いを、よく見ておくように」(本当の引用元).

 昨年末に、作品としては、やや尻切れトンボな感じで、連載が終わった「ヨリモ」の連作短篇小説「ことば汁」。
 夏にお会いした際は、文芸の門外漢であることを力説していた担当記者さんに、その後も出現する例を併記した文書を送り、このブログのことも知らせてあったので、流石に、ことの重大さに気づき、連載を中断したのだと考えていました。

 同じ「ヨリモノベル」に連載されていた石田衣良さんの小説はすぐ単行本になったけれど、ほぼ10ヶ月、間をおいて発行されたのは、話し合いがもたれたからだろうか。
  どなたかが忠告してくださったのか、後ろの方に「引用詩集」が載ったが、すべてが書き下ろし小説のもので、指摘した作品については、触れていない。

 3年前の「文學界」の論考の頃も、誰かに指摘されたのか、「石垣りん」特集(「現代詩手帖」)でのみ、こうした引用元(らしきもの?)を掲載していた。
 この著者が書いたものの全てを目にしているわけではないが、本書の「著者紹介」に挙げられた著作は、すべてに限りなく盗用に近い、断りの無い書き写しがある。
 一読後の印象は、

1、明示されていない引用元の提示が必要。
2、「ヨリモ」掲載時に、断りが無かったことへの謝罪が必要。
2、かたちの上では引用元を示したのだから、今までの著作の引用元の全て、そして、限りなく盗用に近い書き写しの全てについて、「引用元及び参考文献」を発表し、元の書き手と編集者、読者へ謝罪し、本の回収をすべきだろう。

 明示されていない「引用元」からの書き写しの例の方が、深刻だ。
 今、呼吸をして、生きて書いている、そして、本書を読むことも可能な書き手の作品だ。
 そうした深刻な例の文献を挙げなければ、意味がないだろう。

1、木坂涼 『すてきなりぼん』(フレーベル館)
2、合田道人『日本人が知らない外国生まれの 童謡の謎』(祥伝社)
3、片岡直子『素敵なともだち』『おひさまのかぞえかた』(書肆山田)
 「かまくら春秋」にて連載中の小説・「内側からの暴力」(「群像」エッセイ)
4、リディア・フレム『親の家を片づけながら』(ヴィレッジブックス)
 (これは、この人が「中央公論」誌で書評をしている)

 これらに関しては担当者に文書を送り、このブログにも記している。
 指摘を受ける度に、「元の作品を読んでいない」という回答をしてきたとのことだが、書評をした本を読んでいないということは、まずないだろう。
 詩集『素敵なともだち』に関しては、寄贈の謝礼の手紙が、まだ手元に残っており、月刊誌「かまくら春秋」は献本されていることが、分かっている。

 発行元になった中央公論新社は、こうした指摘があったこと自体を、知らされていたのだろうか。

 ヨリモ掲載時の小説を、一度でも読んだ人なら、この行為が何を意味するかが、わかる。こうしたカムフラージュの行為に、ヨリモの記者や発行元の編集者が、つき合わされている。これらの人々も間接的な被害者だと、私は考えている。

 深刻ではない文献を並べることにより、明らかにすることができない作品を、隠す。これは猪瀬直樹著『ピカレスク』(小学館)が指摘をした、井伏鱒二の方法と同じだ。
 ブログを読んだ知人が、蔵書を下さった。

P.178「井伏鱒二が(「山椒魚」に関して)チェーホフの『賭け』からヒントを得たと述べるのは、シチェドリンの『賢明なスナムグリ』を種本とした事実をはぐらかすためだろう」
P.350「素材を直に使う」「素材の順番をそのままにリライトしていく。テーマを集約する力がない」
P.429「なぜわざわざ文語体にしたのかといえば」「古い資料を引き写しているから、と断ずるほかない」(青ヶ島大概記)
P.467「井伏は余分な物語をつくろうとした」(「黒い雨」)
P.470「これらの描写はすべて重松日記にある」(「黒い雨」)

『ピカレスク』を読むと、こうした行為をする人の行動は似通っていることが、わかる。
 安岡章太郎や大江健三郎は、原文を確認せずに井伏の擁護を断言し、「こういう記述は無いのではないか」と、わざわざ書き写しの箇所を引用したとのこと。
 それと同じような行為は、今も続いている。

 本が存在する限り、この人の行為は残り続ける。
 そのことを、本を出す側の人は、自覚しているだろうか。
 井伏のように全集に収めることを拒否したとしても、本は存在してしまっている。
 この人の場合は、初出のタイミングが、すべてを語っている。
 
 文芸の門外漢の外には、このような書き手を指名した人間が存在しているのだろう。
 
 この人を評価してきてしまった人が、フォローに躍起となっている、という話は、耳にしていた。
 映画のことも聞いたけれど、原作の原作を読んで鑑賞すると、見えてくるものがあるのかもしれない。

 少し前、同じイベントに誘われた詩人が、「この人の書き方には問題がある」と、同席を拒否したところ、「そんな話は聞きたくないんです!」と、主催の人が、返してきたそうだ。
 ここに存在していないのは、「冷静な読み」。
 せっかく優れた詩人に、自分から出演依頼をしているのに、その人の言葉に耳を傾けることができない。
 読者ではなく、信じているだけの人なのだろう。

 文学を装いながら、「冷静な読み」の存在していない行為は、他の様々な場所でも、見ることができる。
「そうした人々の行いを、きちんと見ておくように」
 大学時代の恩師から、そう言われている。

 この人によって、作品を無断で書き写された詩人が3人、すでに、現代詩の世界から遠ざかっている。
 私は、元の書き手の作品を、これからも大切に読み続けていこうと思う。

 今後は、文芸評論家にも、「読み」のある仕事をしていただきたいと願っている。

投稿者 otonasii : 2008年10月04日 18:09

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.a-happy.jp/blog/mt-tb.cgi/4134

コメント

コメントしてください




保存しますか?