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2006年03月14日

三角みづ紀   時計じかけのオレンジのように

すばらしい毒、 声をあげては      三角みづ紀


血が流れない
痛みはあるのに
血が流れない
加速されたことばに
翻弄され
地球の裏側から彼等に向けて
放たれた叫びが
いま
届いた


救急車の
どうしようもない明け方に
産まれ落ちた旅人
六月の旅人
心臓を蝕む
薬をもらったんだ


窓際のマトリカリアと
テレビの上の向日葵が
過激に優しくて
やりきれなくて泣いてしまう
少年のようなものが
もはや少女ではない扉を開ける


忘れてしまったのだろうか
息をするということ
そして
うまく血を流すこと
マチカドで執拗につきまとう
おとこにすら
物語はあるのだ


真実を知ったら
思いがけず完結してしまう


すばらしい毒、声をあげては
心臓が
すこしずつ死んでゆく
たいして
悲しくもないのだが
そのたびに
旅人
に近づいているみたい


彼等に云いたいことは
ひとつだけ
でも
そんなこと
たぶんいっしょういえない


笑ってくれればいい
この姿を
笑ってくれさえすれば

 


 この詩人のことばには、スピード感と鮮烈さがあり、読んでいるうちに心臓がドキドキしてきます。それと
恐らく同じことかもしれませんが、ことばからことばへの跳躍力もこの詩人の特徴のひとつだと思います。
 
 このことは必ずしもことばだけではなく、その内容にもよるのでしょうが、詩全体が何か生の断崖をたどっているからのようです。

 たとえば
<救急車の どうしようしようもない明け方に 産まれ落ちた旅人 六月の旅人 心臓を蝕む 薬をもらったんだ>
 こういうことばの有り様はこの詩人の生そのものであり、それが読む私に伝わってきてドキドキするのだとおもいます。
 
 ことばのスピード感や跳躍力に負けないようについていくと、生の真っ只中に自分が投げ出されたような感じさえします。

 それにしても、この詩人か生きている場所はなんと荒涼としていることか。そこでは木や草や水などといった自然の息吹は殆ど感じられず、映画『時計じかけのオレンジ』の世界のようです(それは、もしかしたら、イラクや日本の本当の姿かもしれない)。

 しかし、荒涼としているにもかかわらず、その世界は大変新鮮で透明な感じがして、それがとても不思議です。

 六連目の<すばらしい毒、声をあげては 心臓が すこしずつ死んでいくみたい>
 七連目の<彼等に云いたいことは ひとつだけ でも そんなこと たぶんいっしょういえない>には特にそんな感じがします。

 たとえその世界がどんなに荒涼とした世界の悲しい出来事であったとしても、私はこの六連目と七連目に深く感動しました。

投稿者 yuris : 00:35 | コメント (0) | トラックバック

2006年03月13日

「森の地図」作田教子  生命(いのち)の雰囲気

森の地図     作田教子     


日の出の前から朝が始まっているように
日が沈む何時間も前から闇夜は起き上がる
森の地図は何度も書き換えられる
やさしい木が倒れると
そこに光があたり 花が咲く

大きな鼻を持つ雨の神に出会うと
森はなくした聲を取り戻し 泣くことを思い出す
あなたは雨が通り過ぎたことを知って
時計の螺子を巻くだろう
時は戻らない

幸福とは遠くにいくことかもしれない
やさしい木が天を指していた頃の地図は
未来の空の引き出しのなかに眠る
森はどこにもいかない
けれど 森は通り過ぎていく 
雨をくぐりぬけ 風をくぐりぬけ
光も闇もくぐりぬけて

熱帯雨林に行ったことはない
けれど熱帯雨林のことをいつも考えている
だからさようならと言った
やさしい木になれるだろうか
雨も 光も そして死も
花を咲かせるために‥‥

記憶の森の雨の神はやわらかい靴を履いている
すぐ後ろに立つまで気づかない

 
 
 この詩はひとことでいえば、大変雰囲気のある詩だと思います。
 盛り場の雰囲気、港の雰囲気、春の雰囲気などというように。
 雰囲気ということばはいろんな場面でつかわれていますが、そのことばの意味を上手に語ろうとすると、
なかなかうまくできません。それは多分、雰囲気というのが、わたしたちの語感や考え方と非常に密接に
関係しているからであり、つまり、生そのもののように捉えがたいものだからなのでしょう。

 それはまるくもなく、四角でもなく、過去でもなく、未来でもなく、間近であって、しかも遠くあるからなのでしょう。この詩人がこの詩を書くとき、こういうことを考えていたかどうか、わかりませんが。私はこの詩
を読んで「森の地図」というのは、生命(いのち)の雰囲気だなあと感じました。

 つまり、この詩のなかの<森>は<生命(いのち)>に書き換えることもできるのではないかと思います。
生命(いのち)が森になったとき、何とそれは誰にも感じとることができる不思議なやさしさにみちていることか!

     
     森はどこにもいかない
     けれど 森は通り過ぎていく
     雨をくぐりぬけ 風をくぐりぬけ
     光も闇もくぐりぬけて


     
     記憶の森の雨の神はやわらかい靴を履いている

投稿者 yuris : 01:47 | コメント (3) | トラックバック