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2009年06月16日

元気になりたい!

 「ちょっと行ってみようか?」とタケミは言った。そのスーパー・マーケットは駅の北口と南口との間にあった。ということは駅に続く構内にあった。駅の改札口は2階にあったので、勤め人が駅から降りる前にその店によって、買い物をしバスに乗って家に帰ることができるので便利にちがいない。駅から歩いていくと、人がいっぱいで時々、歌をうたうひとや、いろいろな国からやってきた楽器を演奏する人がいたりした。「こないだはね、カナダからきた、とても上手なギタリストがいたんだよ」とタケミは言った。それから、もう半年もそのスーパー・マーケットに通いつめている。
 
 なぜそんなに、そのスーパー・マーケットが好きになったかといえば、まず安いこととどんな人がいっても親切なことだった。私はその頃、リウマチがになったばかりで、細かいお金を手で数えることが遅かった。その店は年を取った人がたくさん買い物しやすくなっていた。それほど広くはないのに、その店は魚の種類が豊富で、私が幼い頃食べた魚もたくさんあった。ナメタガレイやキンキやホヤがあった。ホヤは海のパイナップルともいわれ、パリにもあった。今度、パリの友達がやってきたら、ホヤの新しい調理の仕方を披露しなければならないと思った。それは一生のうちでも、よく思い出すほど美味なのだから。

 春になると
蟹を喰いながらむせび泣く

 東南アジアの詩人の詩に感激したことを私は思い出した。タケミと私は毎週、
その店に通ったのだが、はじめ私はリウマチで足が痛くびっこをひいていたのにだんだん回復してきて普通のはやさで歩けるようになってきた。
 ナメタガレイは寒い海のなかで育ったので、油がのっていて、とてもおいしい。キンキは高く手がとどかなかったが、いままでの半分になっていた。
 春になると、タケノコやキャベツやジャガイモがおいしくなった。タケノコは蕗と煮て、ウニと味噌をあえた物で食べると最高の味になる。
 とまあ、こんな具合に10ヶ月は暮らした。よく歩いて最近では足の痛さは殆どなくなった。ただまだ手の指は痛いことがある。それでも、銀座や東京駅などに行くと次の日は足が痛くなった。
 この間は詩人白石かずこさんのある文学賞のお祝いにやって来た詩人新川和江さんと私たちの詩の雑誌『something』の編集部員田島安江さんと棚沢永子さんと一緒に銀座の帝国ホテルで会ってお寿司を食べた。


 新川和江さんはもう七十九歳にもなるのに顔色がよく、つやつやしてお元気だった。彼女は帝国ホテルの壁のガラスタイルのことを語り、エジプトかメソポタミアには、上薬を塗った二千年もたったガラスの器があるらしいという話をした。その上薬は二千年もするとガラスと一緒に変質して、えもいわれぬ美しい輝きを放つと言われた。その時、「わたしは二千年も生きたことがないから、わからないけれど……」といったので、えっと思って思わず詩人の顔を見た。
 
 まるで女の詩人が二千年も生きているかのような、とんでもない幻想に私は
かられたのであった。なるほど、詩人というのは、こんなことを考えているのかと思い驚いたのである。それでも、私はその後、一週間ばかり、リウマチの具合が悪かった。
 
 日本では、かつて経済大国とかいわれたりしているが、少しも社会制度が発達していない。たとえば、女性が働きながら安心して子供を産めるようになっていない。それだから、結婚する男女が少なく、どんどん老人大国になっている。大学は莫大な費用がかかるし、家賃は高いし、老人介護は少しも発達していない。自殺者は三万人以上いるし、ろくなことはない。それなのに、百歳以上の老人が多く、これはびっくりしている。どうかすると、気候がいいせいか長生きする人も多いのである。私も長生きをする人をテレビで見るのが好きである。一体どんなふうに百何歳の人が生活しているかといえば、千差万別である。たとえば、地方で酒屋さんを開いている女の会長さんは104歳で、朝起きるとコップにきれいな水を入れて、目をぱちぱちと百回ぐらい瞬きをする、新酒のお披露目をしたり、お酒の瓶にラベルを張ったりして暮らしている。若い頃からの生活をなるべく変えないのだそうだ。もう一人の百歳の人は毎日お風呂に4時間も入る。血のめぐりをよくして海草類をたくさん食べるそうである。
 もう一人は、お客に法律関係の書類を作成してあげる仕事を家の一階でしていて、3階に住んでいる。かれは歯が丈夫でかたいものでも何でも食べられる。食後、梅干しを砂糖壺に入れて転がしてたべるのが大好きである。皆が寝静まった真夜中に起き出し、お風呂に入り、非常に柔らかいタワシで体をこするのが長生きのこつらしかった。
 ひと頃、きんさんぎんさんという双子の姉妹が国民的アイドルになり、みんなの話題をさらったことがあった。なにしろ、この双子のおばあちゃんたちは愛知県に1892年8月1日に生まれ、姉のきんさんは2000年1月23日(満107歳)まで生き、妹のぎんさんは2001年2月28日(満108歳)まで生きたのだから、信じられないくらいである。私の母より17年も前に生まれ、27年も後に亡くなったのである。


 きんさんは赤身の魚が大好きで、ぎんさんは白身の魚が大好きだった。1991年二人して数えの百歳になり、市長から長寿の祝いを受けると、テレビのCMに起用され、たちまち全国的に有名になった。幾度となくテレビに出演したり、台湾に招かれたり、「きんちゃんとぎんちゃん」という唄になったり、ドラマに出たり、園遊会に招かれたりした。
 姉妹はマスコミに取り上げられる前に軽い認知症であったらしいが、著名人
やリポーターの取材を受けたり、旅行するために筋力トレーニングに励んだ結果、記憶力が戻ったり、認知症が改善したりしたそうである。おかしかったのは、いろいろな仕事をして大金が入った際、「お金を何に使いますか?」ときかれると「老後のたくわえにします」と答えたという。
   
 こんなふうに、私は長生きに対して興味を持っているが、これはアジア人なら誰でもそうではないかと思う。それに自分がそれほど長生きできなくても、そういう話を聞くのが好きなのである。タケミは赤身のマグロの刺身が好きなので毎日のように食べている。


 本当は私たちはほんの少しでも旅に出たいのである。でも、まだ体がそれほど元気ではないし、お金もかかるので、我慢している。

 昔といってもほんの少し前、私は「AUBE」というランボーの詩のタイトル、「夜明け」というグループを創って286回も原宿という街に集まってみんなで世界中の詩を声を出して朗読していた。それをテープに録音して地方の会員に送っていた。そのとき、そのテープのはじめにモーツアルトのピアノ協奏曲の第二楽章とかを録音して会員に聴いてもらっていた。それは何でもないことのようだったけれど、私たちが元気でいられる要素ではなかったかといま思いだした。286回も10分ぐらいの音楽をいつも探してきて、2週間に一回はみんなでそれを聴いたのだから。いつも音楽が体のなかを流れているような気がしていた。それを聴かなくなってから、リゥマチだの糖尿病がはじまったのだから。いまはだいぶ治ってきたけれど、また音楽を聴こうと思った。どういうわけか、タケミは子供たちの器楽合奏のフィルムを取り始めた。パリの友達はピアニストと友達になった。私はコンピュータにリパッティ、スコダ、リヒテル、カーゾン、ブレンデル、ハスキル、アリゲッティなどというピアニストを呼んであらゆるピアノ曲を聴いてみた。それらはなんとも美しかった。

 しかし、オペラも聴いてみたくなった。歌姫や男のオペラ歌手はいつもあらゆる場所に招かれて何万人という人達の前で歌う。なんという情熱なのだろう。あらゆる広場や何百年も続いているコンサート・ホールで歌う。国境を越えていろいろな人種の人達をたった何分かで魅惑するとは一体どんな声なのだろうと思い、つくづく感心してしまった。そして、YOU TUBEは世界中どこでも聴けるのだと思い、現在はなかなかすごいと思った。音楽は何かだ。音楽のことを忘れていたなんて。

      シェークスピアは言う
      生きるべきか死すべきか?

      音楽は言う
      生きよ! と それから 消えてしまう 

とフィッリップ・ソレルスは書いていた。こんなふうにいろいろなことをしながら私は少しづつ元気になりつつある。


      「パープル・ジャーナル」のためのエッセイ

投稿者 yuris : 2009年06月16日 00:17

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