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2005年08月25日

「夏時刻」水野るり子   境界を生きる

      夏時刻         水野るり子


夏のいちにち
森の周辺をさまよっていると
おばあさんが切り株にこしかけ
青葱いろの髪を束ねたまま
うっすらと少女になりかけている
( 夏がゆるやかに胸をひらいて
その襟もとにわたしを呼んでいるのだ)
大気には
ちらちらと青いしみが揺れ
草のふみしだかれた匂いがする
見なれないものたちが
あたりを大股に歩いているのだ
(植物たちの夢が
かぐわしい液体となって
地下の古層から滲みだしてくる)
マメコガネ、カマキリ、カマキリムシなど
おおきな夏の肉体に
たえまなく出入りしている
かれらのささやく羽音は
生きものたちのとぎれない夢のようだ
(だが…わたしはふたたび
ここに帰ってくることはないのだ)
(たとえ…輪廻転生があったとしても?)
自問自答するわたしに
青葱いろの大気の底から
「なら…あたしをたべて」という声がする
ふりかえると 少女は
ひざのあたりまで 露にぬれて
秋のきのこになりかけている


 
 前に哲学か物理の本で、時間から空間へ、空間から時間へと移動するといったようなことを読んだことがあります。そのとき、気になったことは、(いまはそれ程ではありませんが、私はこういうことを持続して考えることは苦手なのです)もしそうだとするならば、時間と空間の境目はどうなっているだろうかということを漠然と考えたことがあります。
 ところで、この詩人の作品を読んで私がいつも感じることは<時間>です。時間の奇妙なリアリィティです。奇妙なというのは、日常の時間とは違う時間を強く意識させられるからです。
 たとえば、この詩では、
<夏がゆるやかに胸をひらいて その襟もとにわたしを呼んでいるのだ><植物たちの夢が かぐわしい
液体となって 地下の古層から浸み出てくる><おおきな夏の肉体に たえまなく出入りしている>などは時間をあたかも風呂敷のようにひろげたり、たたんだりしているようです。
 この詩人は時間と空間の境目を見たかも知れない、あるいは見ようとしているのかも知れない。いずれにしても、この詩人にとって<夢>決して単なる夢ではなく、時間の発見の場なのではないでしょうか?
夢のなかでは、ときとして、時間は海のようにひろがったり、森のように奥ゆきをもっているように思われたりします。しかし、それを、その感覚を、目覚めていながら確かめることはとてもむずかしく、そしてこわいことであると思います。この詩がメルヘンのようでいて、しかも何かリアルな緊張感があるのは、時間というものがこの詩人にとって容易ならぬものであるからなのだと思います。

投稿者 yuris : 2005年08月25日 00:45

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コメント

詩のなかの時間意識にこのような角度から光を入れ、読み解いて下さったのは初めてでは…。”時間”こそ、ある意味で私にとっての最大のテーマかもしれません。有難う!

投稿者 青い石 : 2005年08月25日 14:10

この詩を初めて読んだのは「孔雀船」でとても新鮮でした。

シェイクスピアの「真夏の夜の夢」のようでもあり、プルーストのための評論「夢の方法」も参考になったようです。夢といえばダリの

キリンの長い足を思い出しますね。一色真理さんの詩で青空の

中で四本のながーい足の食卓テーブルでぐらぐらしながら、食事をしているというのは傑作でした。青い石さん、これからもたくさん

たくさん素晴らしい詩を書いてください。 

投稿者 aoiuem : 2005年08月25日 21:44

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