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2012年07月21日

エッセイ6

「遠野物語」の鳥の話
               絹川早苗
 五一話 山にはさまざまな鳥住めども、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附けの者など峠を越え来れば、はるかに谷底にてその声を聞くといへり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親しみ山に行き遊びしに、男見えずなりたり。夕暮れになり夜になるまで探しあるきしがこれを見つくることを得ずして、ついにこの鳥になりたりといふ。オットーン、オットーンといふは夫のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴き声なり。
 五二話 馬追ひ鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のやうなる縞あり。胸のあたりにグツゴコ(口籠)のやうなるかたあり。これもある長者が家の奉公人、山へ馬を放ちに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがつひにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野にゐる馬を追う声なり。年により馬追ひ鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり深山には常に住みて啼く声を聞くなり。

鳥の話はこのほかに五三話があり、いずれも少年か少女が、何かのきっかけで小鳥になってしまうという話である。五三話は、姉が焼き芋の柔らかいところを妹に食べさせたのに、妹は、姉はもっといいところを食べたに違いないと思って姉を殺すと、姉はたちまち鳥になりガンコ、ガンコと啼いて飛び去る。ガンコとは方言で固いところという意味、妹は自分が誤解していたことを知って、同じように死んで「包丁かけた」と鳴くホトトギスになったという話。これらは鳥の鳴き声の「聴きなし」と羽根の色や形などの連想から生まれた話で鳥の前世譚とも言われる。五一話のオット鳥はコノハズクのことで、娘が恋人のことを呼ぶのに夫というのは不自然だが、類話は岩手県に多く、それらは若夫婦の話として語られているという。五二話の馬追ひ鳥はアオバトの方言名、奉公人といっても、たぶん少年であろう。これらの話はいずれも物悲しく哀切な色調を帯びている。 
 人が鳥になる話は、「白鳥の湖」のハクチョウ、グリム童話「七羽のカラス」など西洋にもあるが、その多くは魔法や呪いにかけられたからで、それが解ければ元の人間に戻る。しかしここでは、ある出来事や想い、執念などによって、自ずから人の身に起きてしまうことで、有名な「鶴の恩返し」も、逆の現象ではあるが、鶴の想いが人に変身させるのである。それが解けるというより、破られるのも人間の欲心で、魔力ではない。また「古事記」では、ヤマトタケルノ命は死ぬと八尋もある大きな白鳥になって飛んで行ったと記されている。鳥は羽根を持っているので、この世とあの世を往き来する、またはそのあわいに生きるものと見做されていたようだ。鳥に限らず動物一般も、変身しても皆同次元に存在していて(あの世でさえ)、『魔笛』の「夜の女王」のような異次元の闇の世界に行くのではない。しかし西洋とのこの違いも、言葉を解さないものは精神性、理性のないものとするアリストテレスに始まった西洋思想、キリスト教の教えがもたらしたもので、それ以前の、ギリシャ神話の時代では、人間も動植物もまだ地続きだったようだ。もともと古代人は、動物たちは人間とは違っていても人間と同じような心と感情を持っていると考えていたのではないだろうか。その意味でも「遠野」の世界は洋の東西を問わず、人類の、人間世界の淵源ではないかと思えてくる。
チベットには、仏典の一つとして、チベット人仏教徒によって書かれた『鳥の仏教』がある。この書は、長い間、本国のチベットでさえ偽経典として無視されてきたのだった。しかし民衆の間では、民話の「のど青鳥の物語」と合わせて、楽しく読まれていたという。のど青鳥とは、チベットでは神聖な鳥とされているカッコウのことで、内容は、そのカッコウに観音菩薩が化身して、訪れてくる様々な鳥たちに仏陀の真髄を説くという構成になっている。思想書というより大衆への啓蒙書の性格をもっているが、「鳥のダルマのすばらしい花環」というタイトル通り鳥たちの鳴き声や姿を髣髴とさせる語り口は翻訳で読んでも楽しく、原文で読むと音楽的でもあるという。最近見直され、インドで復刻されたこの小さな書は、チベット仏教の独自性を伝える仏典として、中国の弾圧から脱出した人々の間で大切にされるようになったという。また西欧にもそれが持ち出され、これへの強い関心を呼び起こしているとの事である。『鳥の仏教』(新潮社)の訳者・中沢新一氏も、これを翻訳した動機は「アニミズムをひとつの思考として、論理として、再評価すべき時代が来ているように感じられ」たからで、この書に「不思議な先駆性」を見出す。伝統的な仏教そのもの(他の宗教も同様に)も人間界だけでなく地球上のすべての生命圏を包みこむ惑星的なものに生まれ変わる時代に来ているのではないか、その意味でこの書はその方向を象徴しているとも述べるのである。
鳥については私も不思議な体験をした。犬猫大好き人間だが、上京後の集合住宅住まいでは、鳥を飼うことが多かった。その頃は飼っていなかったが、相棒が亡くなる寸前、ホオジロがやってきた。庭先にいるのを見つけ追い詰めると、難なく手でつかまえる事ができたのだった。よく考えれば飼い鳥が逃げだして、春の早い時期なのでまだ餌がとれず弱っていたのかもしれないが、その時は急死した彼が身代わりとして私に残して行ったのでは…と思ったのである。その後二年あまり私を慰めながら共に暮らし、一九九二年に彼の後を追った。その鳥の写真は他の死者たちと共に今も仏壇の上に飾ってある。 

投稿者 eiko : 2012年07月21日 14:46

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