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2011年08月24日

ティッシュケースに

P1010717.JPG透明なティッシュケースの蓋に造花を糊付けしました。強弱をつけてデザインするといいみたいです。(あまりなってないかもしれませんが)

投稿者 eiko : 17:03 | コメント (1)

2011年08月22日

目刺と海

思い込みの激しいタイプではないんだけど、一度インプットされたイメージは、なかなか訂正できない(ということを自覚した)。いつだったか、偶然に出会った句で、「木ごらしや目刺に残る海の色」。これは芥川龍之介の句で、教科書にも載っているみたいだから、超有名なんでしょうけど、初めて読んだときには、目刺の目の奥にひろがっている海がみえて、びっくりして固まった。まだイワシとして海を泳いでいるときなら、別に驚かないけど、命とられて、塩ふられて、目に竹だか藁だかをつきさされて、がらんどうになった目なのに海がひろがるなんて・・・・だからどうなの?と言われても困るけど、なにしろびっくりして、すごくうれしかった。ところが最近この句と再会して、そこにちょっとしたコメント、こんな感じのものが書いてあった。浜辺で腐りかけたイワシとかみつけるときがあるが(あるある)このイワシも海で泳いでいたんだなと小さな命をみるような瞬間がある(確かに私にもある)。この小さな生き物が命を失ってもなお木ごらしにつつまれている、そんな切なくて懐かしい風景で。とあった。ああなるほど!と思った。私は「木ごらし」なんて最初からイメージに入ってなくて、目刺の目と海の色だけ、なんとも思い込み激しいなと苦笑してしまったが、何かの拍子にこの句を思いだしても、やっぱり木ごらしなんて吹いていなくて、目刺の目の奥に静かにひかる海がゆったりとひろがっている。静的な哀しみといおうか、このイメージから離れることができないでいる。

投稿者 eiko : 11:04 | コメント (2)

2011年08月15日

蜘蛛の体の人間

そのときは通り過ぎたままだったが、ふと気になって立ち止まることがある。詩でもそんなことが起きる。夢で、蜘蛛を見たのかスパイダーマンを見たのか、今朝とつぜん豊原さんの『蜘蛛の体の人間』を思いだした。ついでに、遠いむかしの田舎の風呂の壁にいつもべたっとへばりついていた黒い大きな蜘蛛も、裸になるの怖かったなあ。

       蜘蛛の体の人間
             豊原清明

  昔、喧嘩はいけないと
  教えた人はいるだろうか
  夕方、風呂に浸かっていると
  大きな蜘蛛が壁を這っていて
  やっつけようと思ったが
  生かせてやろうなどと
  余裕満面だったが、
  腹が立ってきて
  こいつ!こら!
  と、石鹸で潰そうとすると
  ぼぎっと、折れて、蜘蛛は
  風呂の水に流された
  もしや、肛門の穴にはいったら
  不健康だ
  スパイダー
  マンになるのか
  蜘蛛が体内に・入ったなら

  疲れてしまう
  この齢・・・ 
  学校は争いの魔宮であった
  公務員が子どもを
  拷問するようであっては
  愚かなる 何とよくない、学校か
  その学校がもたらした被害とは
  この、体ではないかい?
  傷・だらけ
  手首に跡が残った・傷
  母から
  損傷なく生まれたのに、である
  不意に背後から、
  殺気が走った
  振り向くと
  蜘蛛人間がにたにた、笑っていた
  影が気味悪く、 
  空に溶けゆく
  揚羽蝶

投稿者 eiko : 11:11 | コメント (2)

2011年08月13日

冒険という言葉

いよいよお盆休暇で車は渋滞、新幹線も満員、空港も混雑で人々の移動週間が始まった。人が元気に動いているのは、なかなかいいものだと今年ほど感じたことはない。加齢のせいもあるかもしれないけど、まわりに暗いニュースが多すぎるからかもしれない。といって出かけたい気分にはなれないので、今日は何もしないで、冒険ものを読んで気分だけでもひたろうということにした。『空白の五マイル』角幡唯介(集英社)チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑むとサブタイトルにある。ブックレビューで紹介されて、この本を知ったのだが、まったく裏切られず一気読み。開高健ノンフィクション賞を受賞している。そうだろうそうだろう!!ツアンポー峡谷に人はなぜ魅せられるか、外国の探検家たちの話や遭難した武井義隆さん(これは泣けます)、チベットの人々の変化(2002~2003年探検のあと2009年冬にまた行くが、このときは政治的な事情やケイタイの普及でポーターが雇えなくて単独行になる)など、地図や写真を参考にしながら、苦しくて長い旅を数時間。「・・・極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。過剰なリスクを抱え込んだ瞬間を忘れられず、冒険者はたびたび厳しい自然に向かう。・・・論理をつきつめれば、命の危険があるからこそ冒険には意味があるし、すべてをむき出しにしたら、冒険には危険との対峙という要素しか残らないだろう・・・」ううんそうだと思ったとき、岡本太郎のいつもの過激な言葉を思いだした。「なぜ冒険家は一時的なものだけに身体を張り、永遠に対して挑まない、賭けないのだろう。ぼくの(危険に賭ける)というのは、日常の、まったく瞬間瞬間の生き方なんだ」ううん!!「冒険は賭けである。ならば一生を通しての闘いであるべきだ」ううん!!!!うなってるだけで日が暮れそうだけど、岡本太郎はこんなことも言っている。冒険を計画し準備に取り組んでいるときが最高だと言ったヨットの堀江青年の言葉を取り上げて、「そのとき、実は彼は(冒険)をやっているのではない。着実に、人生に賭けていたわけなのだ。ところが、なまじ結果として(冒険)に限定されてしまったために、終わりがあるのだ。終われば空しい。だからまたやる。」ううん!!!!(冒険)という言葉の使い方がモンダイ??? どちらにしても面白い本だった。

投稿者 eiko : 14:42 | コメント (0)

2011年08月11日

ことの葉っぱ

    ことの葉っぱ
            星野元一

  畑はみごとな ザッソウ
  という名の葉っぱばかりだ
  
  たしかに前世は荒地で
  地主はザッソウであったのだ
  とっくに
  観念している
  だからせめて
  わたしの机の紙の畑も侵略し
  ナスやキュウリやトマトにはなれない思想の
  ことの葉っぱたちを整列させ
    オメエーラ!
  と頭を棒でたたき
  ケムシやカメムシやカやアブやハチ
  をほっぺたにくっつけ
  死んだモグラやネズミやトカゲやヘビ
  を目の前にぶらさげ
    イイカ!
    アヤマレー!
  と怒鳴って
  鼻をこすってみてはくれないか
  昭和の餓鬼大将のように

  ことの葉っぱは
  気位ばかりが高いのだ
  わたしが諭すと 嫁のように
    フン といい
  昔の姑のように
    ヘン といってそっぽを向き
  わたしの育てた畑の野菜に
  けちばかりつけてくるのだ

今日、星野元一さんの個人詩誌『かぎゅう』39号が届いた。この作品のほかに2篇とゲストの新保啓さんの作品。どれもおもしろい。「地主はザッソウであったのだ」なんて、日頃ザッソウを目の敵にしている私はどきり。そうだよなそうだと妙に納得して、でもやっぱり観念なんかしないと思いつつも、やっぱ私も観念してるのかもしれない。ついでに私はバッタも追加したい。しかし言の葉は、本当に気位高くて気難しいです。

投稿者 eiko : 11:32 | コメント (1)

2011年08月10日

プレゼントに

P1010713.JPGこう暑いと花もねえと思うけど、夏には夏の花があるので、お金をかけないアレンジひとつ。大きめの透明のコップかビンを用意。オアシスパウダーの量があまりないときには、まん中に普通のオアシスを細長く切っていれる。オアシスパウダーを入れ水を入れ押さえる、この手順を繰り返す。パウダーはいろんな色があるので、好みで模様の層を作るといい。色を変えるときは、まわりをテッシュで拭いてからすると出来上がりがきれい。リボンはチョウチョ結びに。すべりやすいので4カ所両面テープをつけること。花はなんでもOK。アイビーやハートカズラをまわりにあしらうと可愛い。ミニトマトもアクセントに。ちょっとしたプレゼントになりませんか。

投稿者 eiko : 15:01 | コメント (2)

2011年08月09日

冷蔵庫

P1010708.JPGOさんの家の冷蔵庫がこわれたそうで。この暑いなか、大騒ぎでしょうね。冷蔵庫って収納力かなりあるから、いざなかみを取り出すと、出るわ出るわ(これうちの場合だけど)、狭い台所、足の踏み場もなくなってしまう。これは冷蔵庫の掃除するときの経験から。でもこわれなくても、停電になっちゃうと生ものも冷たい麦茶もビールもだめになるわけだから、実害大。それにしても冷蔵庫が常に機能してるなんて、当たり前じゃないのに当たり前と思ってる我にぞっとする。この写真、ずっとむかしに使っていた木の冷蔵庫。上に氷いれて使ったんだけど「通産大臣賞受賞」とトビラに書いてある。物持ちの良さに我ながらあきれるが、ここまで置いていたのだから、まあ置いときましょうとここ何年も過ぎてしまった。ところで氷屋さん、近所にまだある。小売りはしてないみたいだけど。

投稿者 eiko : 16:19 | コメント (4)

2011年08月02日

無限大に余白

P1010706.JPG 昨年、友だちから貰った小さな株がこんなに大きく育ってしまった。饒舌な感じのする花たちだ。
何故か、佐伯多美子さんの「余白」という詩を思いだした。初めて読んだとき、どんどん小さくなっていくのに、あっと気がついたら無限大の空間にほおりこまれてしまって、びっくりした。今でも時々読んでは凝りもせず、びっくりしている。まったくもってこの花とは関係ないのに、脈絡なく思いだされてくる感覚ってどこから出てくるんだろう。

    余白
        佐伯多美子

  円を描く
  そのうちがわに沿ってまた円を描く
  そのうちがわにまた
  うちがわに
  何層にも円がかさなり
  やがて
  円の中心で
  白い点 のような
  余白
  が 寡黙にあった

投稿者 eiko : 15:44 | コメント (2)