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2006年04月10日

劇団民藝『審判』を観にいく

実はこれは『神と人とのあいだ』その他各地での国際裁判の総序論みたいにして書くつもりの第一作だったそうで、『夏・南方のローマンス』とこれとで後が進まなくなったものだといい、木下順二作、宇野重吉で上演されたものの36年ぶりの再演であるという。
いわゆる東京裁判、すなわち極東国際軍事裁判のA級戦犯(28人)の法廷場面を描いたものである。
この事実への知識は乏しく、また前もって本などを読むことなどしていないので、ただこれを観て考えたことだけの素朴な感想を書いてみたいと思う。

裁判というのは、『怒れる12人の男たち』でもよく知られているように、言葉による闘いの要素があって、ドラマチックな部分がある。これも舞台は法廷、そして観客席が被告席と傍聴席という設定で最後まで続く。確かに劇的要素はあるが、法というものの形式的、瑣末的、事務的な部分もあって、冗長で退屈な部分も多いわけで、その中からエッセンスの部分を選択し構成して、私にでも理解できるように一幕物の劇に仕上げてられている点、さすがだと思った。

これは、大きく3つの場面に重点が置かれている。一つは「ポツダム宣言」を受諾した時にはまだ入っていなかった、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が、新たに付け加えられたということ、また裁判長の経歴などから、この裁判は管轄権がないとして、裁判長忌避を提唱する。この日本弁護人が大滝秀治で、新聞やテレビでも取り上げられていた。法律に疎い私にはその法的根拠が良く理解できなかったが、戦勝国が敗戦国を裁くということ自体、正義と公平に基づいた判決などそもそも望めないだろうというのが、素人の感想である。その中で、正義面をして裁判席に座る連合国に対して、必死に自国の誇りを守ろうとする一弁護人のけなげな姿を描こうとしているように思った。

2つ目は、インドシナ(今のヴェトナム)における日本軍の惨殺行為、フランス軍人への虐殺の問題である。しかしそれは、その時すでにヴェトナムはフランスの植民地であったわけで、それへの抵抗運動がフランス自国でも生じて軍隊も分裂しており、その事実も一種のゲリラに相当するかもしれないと考えれば、この法廷での日本の戦争犯罪ではないということにもなる。そう主張するのが弁護側で、そうではないというのが検事側だが、それを追究していくにつれ、フランスのすなわちそれまでの植民地政策の実態が、すこしではあるが露わになっていくのである。

3つ目はケロック・ブリアン条約ー「戦争放棄に関する条約」というが、この名称など私は知らなかった。
この法廷に参加している大国はほとんどこの条約に加盟しているのである。とすると、ほとんどの大国がこの条約違反をしているではないかということになる。
それを弁護人はついてくる。泥棒(連合国)が泥棒(日本)を訴追するのはおかしいではないか・・・・と。
この弁護人と検事は連合国の人間たちが担当するのだが、その弁護人(ここには日本人もいる)はたとえアメリカ人であっても、その国からはなれて、日本国のために弁護する態度には感服した。自分はアメリカ人だが、敢えて・・・といって母国を非難して、日本を弁護する。それは弁護士という立場ゆえである。
しかし時には自国の宣伝や利害、政治的なエゴも出てくる。ここに、人間が人間を裁くという、まやかしや矛盾も露呈する。
最後に原爆投下・・・・・。この種の兵器はヘイグ条約違反であるのだという。その使用は明白な戦争犯罪だと言う。だからそれ以後の日本軍の行動は「報復の権利」が認められるともいう。
しかしそれは戦争を早く終結させるためには仕方がなかった・・・のか。
ただこの原爆投下による現状だけはしっかりと見て欲しい・・・というメッセージを残しながら幕は下りる。

シリアスなまた真面目そのものである劇だが、現実もそういう真面目な場面がかえって可笑しかったり自ずとユーモアが表れたりするが、それを巧みに生かして、笑いも生じたりした。

これを観ながら、これは遠い話だが今にも通じていると思った。イラクのフセインを裁判にかける場合はどうか。フセインを最初盛り立てたのはアメリカではないか。北朝鮮が今持て余し物になっているが、本国でもほとんど知られていなかった金日成を掘り出し偶像化することに手を貸したのが、ソ連(ロシア)だというドキュメンタリーを先日テレビで見た。自分で作り出した鬼っ子に、手を焼いているのである。

しかしこの裁判をまやかしだと言ってしまうわけには行かない。そう言って、あの戦争を正当化する動きも強くなっているからである。裁判そのものはたくさんの問題があるけれど、日本が行った侵略や不当な行為、残虐行為がそれで消えるわけではないということである。
そして「東京裁判とはなんであったか」・・・
それは日本人の手によらず、全て「あちらさん」任せにしたのである。それを木下順二は言っている。もちろんそういう裁きも当然あるが、今、靖国神社が問題になっているのも「自らの手で戦争責任を追及しなかったこと」にあると、木下氏はあの世で言っているような気がする。その点ドイツは違っていたという。もちろんナチという大掛かりなものではなかったからかもしれないけれど、自国の問題としては、それをやってこなかったツケが今来ているのだろう。

細かいことはもう疲れたのでやめるけれど、一つだけ、パンフレッドによって知ったことをここに書いておくことにします。「戦争犯罪には時効を適用しない」という条約が国連第23回総会で成立して1970年に発効したのに、日本政府はこれに批准していない、とのこと。しかしこの文章は1976年なので、今は知りません。でもそれに批准しているとすると、靖国問題にも関係しますね。

投稿者 kinu : 2006年04月10日 15:37

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