« 「第九」を聴きに行く | メイン | 師走の台峯 »

2005年12月17日

やっと「李禹煥」を見にいく

横浜に出ることがあって、やっと横浜美術館に行くことができた。プーシキン展も行きたかったけれど、とうとう行けそうもない。しかしこれだけはぜひ見たかったのである。
クリスマスと年末を控えて、横浜駅周辺の人ごみにうんざりしながら、泉の水を求めるような気持ちで辿りついたのだった。

思ったとおり入場者は少なく、広々とした空間にゆったりと身をゆだねる事ができた。
まさに鋼鉄そのものといったような鉄の屏風とその前におかれた採石場から今持ってきたかと思われるような角ばった白い大石たちに迎えられる。
内部もたくさんのこれは見事に長い歳月によって造形されたさまざまな形と色をした大きな石、この自然の造形に対する人工でしかもそれに対決できるものとしては鋼鉄しかないだろう。それが常に形を変え、位置を変え、互いに呼応するように置かれている。その中の一つの石だけを眺めていたとしても飽きないだろうと思われるほどの素晴らしい大きな石たち・・・。それと同じくらいに人の手による技術によって磨き上げられた鉄の板や棒との組み合わせ。
そういう不動のものに対して、白い大きなパネルに平たい刷毛で墨色をわずかにのせたばかりの作品の数々は、まさに余白の芸術といってよいだろう。

鋼鉄と石の作品が関係項と名づけられ、それが確たる物の存在を示しているとすれば(それぞれ照応、安らぎ、過剰、張り合い、彼と彼女などと名付けられている)、こちらの方は、その間を吹き抜ける風のようにも私には感じられた。その風が、余白が、ずしりとした存在を輝かせ、呼吸させる。

白いカンバスに筆を下ろすグレーの色について、次のような言葉が書かれていたのでそれを記したい。
 「複雑な現実に近づきたい人は
  多くの色の配合を、
  厳密な観念を表したい人は 
  明確な単色を好む。
  私の発想に中間者的なところがあるせいか、
  用いる色が次第に曖昧なものに限定され、 
  グレーのバリエーションが多くなった。
  筆で白いカンバスに
  グレーのわずかなタッチを施すと、
  画面がどこか陰影を伴い漠とした明るさに満ちる。
  グレーは自己主張が弱く概念性に欠けてはいるが、 
  限りない含みと暗示性に富んで、
  現実と観念を共に浄化してくれるのである。」

人間は、純粋に現実だけでもまた観念だけでも生きられない。ここにあるグレー、墨色、また鋼鉄という技術のきわみと石という自然そのものとの照応、この微妙な釣り合いが、人の心をなごめ、またゆったりとそれらに包まれる感じを与えるのではないだろうか。

投稿者 kinu : 2005年12月17日 20:54

コメント

コメントしてください




保存しますか?