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2007年09月29日

このごろちょくちょく考える (5)

理由も分からずに、お奉行の遠山のきんさんでさえもやらない、喧
嘩両成敗なんてことを言う人って、理解の仕方が他山の火事。
とにかくそう言う人にとって、喧嘩に見えたりそう感じられることに対
しては、まず先に悪いことだと言う捉え方や判断が幼稚園の先生や
親や学校の教師からインプットされて来ているので、反応は放課後
の学級委員の眼がねの女の子みたいだ。
自分がそう感じるだけなのに、なぜそのようなことが起こったのかも
熟知せずに、そのことを「間違い」と称して、紋切り型に指摘するだけ
では、血が通わず白々しい。
問題に関わって心血そそいで騒いでいる人間たちもいるのに、喧嘩
両成敗と言う言葉で荒っぽくかたずけようとする。
そう言う人にとっては、喧嘩をしている人間たちは、精巧に作られて
いないロボットが、生物を認識する時のように、同じ物体が無表情で
同じように動いているように見えるらしい。
お花見帰りのマダムに、小さな事件の助力をお願いした折に「いい気
分なのにつまらないこと聞かせないでよ」と抗議され、暗いことを言う
人間は駄目だ見たいなことを言われた。
「主人のおかげでこんなことさせてもらっているんだから」とも言った。
利用しようとした方も、そうされそうになった被害者も、マダムにとっ
ては世の中のどうでもいいことに巻き込み、巻き込まれたつまらない
人間たちである。
その程度の認識で「喧嘩はいけませんのよ」ときれいごとなど言って
いるなんて、「食べるものが無ければお菓子をお食べあそばせ」と言っ
た姫様に似て、あああ。
「何だかなあ」と阿東海(男優)の口真似して遠くを見るよりは他はな
くなるが腹の底からの失笑は禁じえない。
当事者で無い限り、いじめや脅しのことなんて聞きたくもないものです。
単にうるさい事が嫌いであっったり、内容が自分に降りかかってくるこ
とから逃れたかったり、証拠が明らかになることを恐れるあまりの都合
のよい見てみぬふりも横行している。
火の粉が降ってこない場所にいて、火の粉が見えないから火の粉なん
てこの世にないと言って笑っていられる人もいます。
あなたの代わりにちゃんと火の粉を払ってくれている者がいるはず。
当事者は先ず自ら髪や衣服に付いた火の粉をはらわなければならない。
自分の髪の焼ける匂いをかぐと心まで乾いてくる。
自分自身で自分の用心棒をしているとささくれ立つものがある。
イエスかノーか、敵か味方かの世界です。

投稿者 mari : 14:51 | トラックバック

2007年09月24日

アジアフォーカス福岡国際映画祭「とらわれの水」NO63

インド生まれでカナダ在住の女性監督デイーバ・メータが、故国インドの女性たちに
焦点をあてて描いた映画の題名が「とらわれの水」である。
1930年代のインドでは、経済的な理由で幼児結婚の習慣が強烈にあった。
今でもその習慣は残っているそうだ。
8歳で未亡人になったチュイアは未亡人だけが集団生活をしている場ヴィドバァーシュ
ラムに連れて行かれる。
若くして夫を失った未亡人たちは、マヌ法典に 「未亡人はこの世のあらゆる快楽か
ら切り離された生活を送らねばならない」と記されているように、懺悔と祈りのうちに
物乞いをしながら過ごさねばならなかった。
長い髪を許されているのは、売春婦として世の旦那に喜びを与えお金を稼ぎ、未亡
人たちを養っている美しく気高い未亡人のカリヤニ1人だけであった。
チュイァが船で連れてこられた時も、沐浴の時も、すべてがガンジス川を使って行わ
れており、水は焼いた死体を流すものでもあり、まるでとらわれを助長するかのように
人を運んでゆくものである。
ガンジーの思想に影響を受け、インド独立を夢見ている弁護士志望の青年がカリヤ
ニに一目ぼれし結婚を申し込む。
青年の両親に彼女を紹介するために舟に乗って自宅に向かう途中、青年の父親の
名前を聞かされたカリヤニは船を引き返させる。
カリヤニは、青年の父親に妻(青年の母)のいる自宅に呼ばれ、売春をしたことがあ
ったからだ。
父親に青年はカリヤニを妾にするように言われるが、「あなたは愚劣な人間だ」と言い
返し家を出る。
絶望したカリヤニは入水自殺する。
青年には、細心の心配りをしながら彼女のそばについていて欲しかった。
「あなたがいなければ僕は半身をもがれたようで生きていけない、きっと迎えに来
るので信じて待っていてくれ」と何度も必死に説得して欲しかった。
青年を責めたくはないが心もとない苦労知らずの男性だと思った。
恋人同士の恋の成就を心底祈り願わないわけにはいかない。


8歳の未亡人チュイアは、ある夜、幼児売春をさせられてしまう。
聡明な未亡人シャクンタラに助けられた8歳の未亡人チュイアは、抱きかかえられ、5分
間だけ列車が止まり、ガンジーの話が聞ける駅に群集と共に向かう。
列車が動き出し弁護士志望の青年が乗っていることに気づいた未亡人のシャクンタラは
少女を青年にたくす。


この映画の上映の時は、ヒンドゥー原理主義者のグループに上映館が襲われ、撮影の
時には、ロケの許可がなかなかおりず、抗議に集まったヒンドゥー教徒2000人の群集が
セットを破壊しガンジス川に投げ込んだ。
同業者のジョージ・ルーカス監督(スター・ウオーズ)は、有力な雑誌に全面広告を掲載
して「とらわれの水」のディーバ・メータ監督を支持してくれた。
同業者でも色々あって会いに行っても無視されることの多かった私にはうらやましいことだ。
私の周りの世間はまず先に男性に一目置くからだ。
監督のディーバ・メータはカナダ在住でインドの外から、故郷のインドの女性達の現状を見
ることが出来るということもあって、どうにかしたいと世界に訴えている映画だ。


女性監督デイーバ・メータは、水と火と土に関する映画を作った。
水としては「とらわれの水」、火としては「炎」、土としては「1947年・大地」と言う題名をつ
けている。

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2007年09月23日

このごろちょくちょく考える(4)

丁寧そうな言葉を使用して、いたるところで脅しを受けることがある組織の中で、そ
こに集まる人間のほとんどが、得体の知れない物の怪になっているのがレントゲン
写真のように透けて見える場所がある。
それは奥まった部屋で、表から見ると普通に続いている部屋の一部に見えるけれ
ども、中に入ると表からは見えない異空コーナーになっていて、ロッカーや鉢植え
のゴムの木に隠されていたりする。


自身では何の力も持っていないのに、人に作用するとその人が徐々に骨抜きにさ
れてしまう暗いエネルギーが床に沈んでいて、蛭のように待ち受けている場所。
何事も無かったように繰り返される人々の部屋への出入り。
其処へ招き入れられると、大切な感覚が麻痺してしまう場所。
出て来る人の表情に、身の毛がよだっていたのもつかの間、鏡を見ると自分が見
知らぬ他人になっている場所。


部屋の在り処は分かっているのに、そそくさと用事を済ませ、部屋の指摘を避けて
やり過ごした結果、つけは次々に後から来る人にまわされる。
面と向かっての発言は、たちまちのうちに出入り禁止になるので、全く知らないふり
をしながら暗躍するものをそれと意識するのは容易なことではない。
何しろ其処は人を愚弄する言葉が一瞬露わになるところで「死ね、死ね」とささやか
れる「死ね死ねコーナー」でもあるのだが、その部屋から出ると人はそのことを忘れ
てしまうのだ。
多分家族にも伝染してしまっているに違いない。

投稿者 mari : 07:49 | トラックバック

2007年09月18日

アジアフォーカス福岡国際映画祭「風と砂の女」NO62

青少年に適さない描写がありますと前置きのある映画「風と砂の女」の理由は
後述することにする。
だらだらと続く校長訓示や何々会報の美談の前置きに似て映画祭の説明など
面白くないかもしれないが1回だけ書いておくことにしようと思ったが、やはりや
めることにした。 (なんやねん となぜか突っ込みは、大阪弁になる)
映画終了後の監督に対する質疑応答の時に、男女間のことで誰も聞かなかっ
たこと(聞けなかったこと)などある。
それはさておき登場人物とその人たちの境遇と国を言っておこう。
場所はモンゴル(中国との国境近く)、国境を護衛する戦車が何台も通過する
地点。
妻と娘とパオ(移動式テント)で暮らす男(ハンガイ)は砂漠化する土地に植樹を
している。
植樹の費用は個人ではまかなえない筈だが、費用がどこからでているかは分
からなかった。
娘の耳の治療を頼んでも首をたてにふらない男(ハンガイ)を置いて、娘と妻は
親戚を頼って都会の病院へ行ってしまう。
ある日、北朝鮮を脱出する時に夫を殺された妻と子(少年)がパオを訪れ、一夜
の宿を乞う。
2人の境遇は、国外で差別的な環境で生きていかなければならない朝鮮民族
の苦難に満ちている。
人買いや何の商売をしているのか分からない男たちも男(ハンガイ)のパオに
出没する


青少年に適さない描写と言うのは、延々と続く生々しい3回のセックスシーンである。
このシーン以外にも、酒に酔った男(ハンガイ)が、脱北者の女性(少年の母)をどう
にかしょうとし、失敗する場面もある。
男(ハンガイ)は知り合いの女性が通りかかるといっしょに酒を飲み、歌を歌いその
夜、大草原で大胆なセックスシーンを展開する。
娘が病院に入院し、脱北者の女性からは拒絶され、寂しかったのでちょっとパオに
寄った家庭持ちの色っぽい女性と遊ぶと言うのは、いかがなものでしょう。
民族的な慣習ではなく個人としての選択なのでしょうか。
分かりませんでした。
食事と睡眠と同じくらいに必要なものだとしても、理解できないところです。
脱北者の女性は、男(ハンガイ)が、留守の時に車に乗せてくれたりしていた男に2
回やられてしまう(陵辱のこと・表現が乱暴で申し訳ない)。
しかし2回目は合意の上のように見えてしまったシーンではあった。
少年にその場面を見られてしまったと言うのもよくありませんでした。
むやみに男の車に乗ってはいけませんと言う見本にはなる。


監督のチャン・リユル氏(男)は中国育ちの朝鮮人で、母と2人暮らしであった。
監督は、映画終了後の質疑応答で、自身の潜在意識の中に母と子の2重写しのと
ころがあったとおっしゃっていた。
女性達は、質疑応答にもあまり残らずそそくさと帰ってしまった。
年配の男性が、「モンゴル・韓国・フランス合作の映画と聞いていたが、まるでアメリ
カ映画のようだ」と感想を述べたのは、自由な男女関係を遠まわしに指摘したように
うけとられた。

投稿者 mari : 09:26 | トラックバック

2007年09月16日

料理にまつわる映画がやたらに・・

映画「厨房で逢いましょう」(NO61)は、巨体を持つ、ぶ男の孤高のシェフと家庭のある子
持ちの夫人の恋を背景にし、空腹中枢を強烈に刺激するドイツの料理映画。
(電話やメールで尋ねる方がいますので申しますが、2人は最後まで肉体関係はありませ
ん・・普通そこまで言わせるかなあ・・・しかし言われて見ると大事なことかも )
雨が降ろうが槍が降ろうが、シェフの料理食べたさにシェフ宅に押しかける夫人の幸せそ
うな表情を見るために続けて2回劇場に行った。
こんな満足そうな安定した夢見るような女性の表情はしばらく見たことがなかった。
いや、よーく考えると一度も見たことは無かったかもしれない。
彼女はオリジナル料理「エロテック・キュジーヌ(官能料理)」を食べるほどに美人になって
ゆく。
鴨、キャビア、牛、牡蠣、ケーキなど、どんな素材も見事な一級品になってゆく裏には、シェ
フの子供時代の料理体験がある。
それは辛く当たる義父に、義父の犬をそれと気づかせずに美味しく料理して食べさせた凄
い体験なのだが・・
料理の隠し味は重く辛く呪わしい悪意のある体験だった。

また、母親が妊娠している姿が崇高に見えたので、シェフもそのような体躯を望んだ。
妊娠した女性に憧れてもいいけれど、男性が沢山食べて太ってもちょっとそれは妊娠した
姿とは程遠いものだと思うのだが、本人の思い込みは激しい。

ウエイトレスをしている彼女に声をかけたのは、他人との人間関係を結ぶのが苦手なシェ
フの方から。
皿に残ったソースを指で拭い取り舌で嘗め尽くしてしまうほど美味しいシェフの料理は見た
目も芸術品であることはいわでもがな。
料理の手つきは、どっしりとした大木から腕を2本突き出して、エネルギッシュだが静か、
動物で言うとサイ風。
料理する時の音は、かなり乱暴に聞こえる時がある。
映画「カモメ食堂」の料理人の終始静かにてきぱきと塩を振りかけたり、魚を焼いたりし
ていた繊細な手つきとは違っている。
肉もフライパンで焼いていたとか魚の名前はシャケだったとかわざわざお知らせはいりま
せん。

彼女はシェフの料理を食べたとたんに、生きる喜びを感じ、家族関係もよくなり、夫との間
に諦めていた第2子まで授かってしまう。
しかし夫は嫉妬心を燃やしシェフの菜園と蔵庫ワインを破壊する。
シェフは夫に殺されそうにもなるのだが、その時シェフを救ったのは彼自身の体重だった。
森の中をどこまでも追ってくる夫の上に、木の上に隠れたたシェフが落ち、つぶしてしまう。
夫は絶命。
母の妊婦姿に憧れて、太り続けたことが、シェフを救ったことになる。
シェフは服役するのだが、表向き幸せなそうな料理映画にふさわしいなごやかな結末を向
かえる。
人には名前がある。
彼女の名はエデン(楽園)、天才シェフの名はグレゴア

同時期に上映中のアニメ「レミーのおいしいレストラン」はまともで可愛く真面目。

投稿者 mari : 07:36 | トラックバック

2007年09月14日

このごろちょくちょく考える (3)

習い事の弟子と言うものは、師にとって可愛いものらしい。 
自分の息のかかった者に陣地を取らせるような戦国時代の戦略が
いまだに実行されていたりする。
これが男女の師弟関係で、師が何人もの弟子を可愛がるとすると
裏では、すさまじい戦いが始まってしまい、関係ない者までとばっ
ちりを受ける。
世間様は事なかれ主義であるから、何の解決も無いまま、地球が
滅びるまでこのまま生ぬるく行きそうな気がする。
何の駆け引きも無い、自他が利益を得るシステムもない平等な世
界と言うのは、そう言うことが出来る経済的な余裕がある人種のグ
ループ活動などによって守られている。
精神貴族や有閑マダムは経済をバックアップしてくれるパトロンや
夫を有している。
お金から自由な人は一人もいない。
ということはお金と命は直結していることになる。
呼び名は異なるが上司と部下、教授と研究員などと言われている
人々も、自由競争の中で裏切り裏切られて胃を痛くしている。
一匹狼、アウトロー、義賊だって、か弱い肉体を持つ人間。
どこかで生きていて欲しいものだが。

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2007年09月13日

このごろちょくちょく考える (2)


出会いがしらの往復ビンタと言うのは時々ある。
こちらが出会いがしらだと思うだけで、用意周到に準備され待ち伏せされていた往復
ビンタがほとんどだが。
なぜそんなことをするのか? たいていぶんどり合戦のねたみそねみや報復である。
世間でそう言うことをしないですんでいる方々は、被害者が騒ぎ立てているのを垣間
見て騒がしい、みっともない、うっとうしいと思われるようだ。
被害者が好き好んで騒ぎを起こしているかのように感じるらしい。 
「みんな仲良く出来ないのお」とのんきなことを言う。
渦中にいないので痛みも分からず冷笑し、しまいには無視する。
被害者は無視されると、無視した人を加害者と同じだと思う。

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2007年09月12日

このごろちょくちょく考える (1)

どうしょうもなくなった現状を維持し、おのれを鼓舞し慰めるために、「プラス思考」をして
現実問題をそらし、自分に都合のよいように明るく受け止め処理しようとすることが世間
ではよく行われている。
そのような考え方をしなさいと言う激励を受けることがよくある。
怒りも、憎しみも感じないように鈍感にはなれないので、そのままの現実の中では、生
きてゆく力が失せ、何の努力もしないまま、よどんだものが腐り始める。
視点を変えて、いつもニコニコ顔でいられるために唱えられる魔法の言葉「プラス思考」
は私には今のところ効かない。
キツネが「あっちの葡萄は酸っぱいからね」と言う戯画が目に浮ぶ。

殴った別のキツネを捕らえたい。
「疲れた筋肉を揉みほぐしてくれていたと受け取ろうよ」と言われても殴られたところは
痛い。
「殴られたところにごきぶりがいて、ごきぶりがつぶれたからいいじゃない」と言われて
も困る。
「蚊さんも短い命を懸命に生きているのだからね」と言って腕を差し出し血を吸わせる女
性がほんとうにいたのを思い出した。
蚊の楽園には住みたくないし、其処まで行くまでやりくりした費用や時間をお考え下さ
いましな・・・・

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2007年09月01日

2度あることは4度も5度も

水木しげるの漫画には「ぼや鬼」と言う鬼が登場するのだが、昨日
から今日の未明にかけてぼや鬼が私の背中にはりついていて、ぼ
やくことしきりである。
9月1日の明け方2時に電話が鳴った。
当然眠っていたのをたたき起こされたわけであるが、受話器をとっ
ても3秒4秒5秒と無言のままだ。
上品な向きにとってはまことにもって下品な話題であるが、「パ〇ツ
何色?」(ショー○のこと)と聞かれて、こちらが「おうど色」とか「ネ
ズミ色」「ぐんじょう色」とかふざけて応えられていた時の方がまだま
しである。
見知らぬ相手を図に乗らせないため、ネズミ模様とか、かぼちゃ印
とかは付け加えず、すぐに受話器を置くことにしている。
今度の場合は、しゃべらないので、男女の区別もつかず、かてて加
えて誰がかけてきた電話なのか分からないので、あの人かこの人か、
一方的に努力はしているつもりなのによい関係へ修復できていない
人たちの顔が思い浮ぶ。
朝の2時に電話をかけられるほど、体力と気力が残っている人と言
うのはどんな人であろうと空想してみる。
逆に朝の2時が快調の人もいるはず。
電話は時折、生きていない人からの通信であったりするらしいから
大変だ。


さあこうなったら糸瓜の中味をずるずる手繰り寄せるように時間が
逆戻りする。 
ぼや鬼君が完全に目を覚ます。
昨日の朝はテレビの星座占いで私は98点だったので、アシスタ
ントのお姉さんの声援を背に意気揚々と映画館に赴いたわけで
ある。
さて見るのを楽しみにしていた映画のこと。
現実と虚構の境界があいまいで、人や場所が突然に入れ替わ
り、夢の深層心理に深く入り込んでいると前評判のある映画「
インランド・エンパイア」を見たのだが・・・
私にとって (と断りを入れておく) そのあまりにも影の薄い、切
れ味の悪い展開、覇気のないそれでいてあきあきするほど冗長で
ぼんやりした兎人間、むやみに叫んでやたらと驚かせる猥雑な登
場人物たちが口に合わなかった。
面白くも可笑しくもない日常の歯磨き行為のやり方の説明のような
夢の資料の羅列にうんざりさせられた。
3時間にも及ぶ映画に60分で見切りをつけて表に出た。

次にジャッキーチエンのアクションもの「ラッシュアワー3」を見たが、
実在する社交ダンサー(男)とニューヨークのスラム街の高校生の
交流を描いた映画「レッスン」ほどの切れのよさ温かい人間味も感
じられず、真田広之と工藤夕貴の悪役は個人的に興味をそそられ
なかった。

落語にある話だが、お客が蕎麦屋におあしを払う時になって、1、2
3,4、と数えて行き途中でお客が「いまなんどきだ?」と蕎麦屋に
尋ね、6つ時だと蕎麦屋が答えると、相手が答えた6つ目を抜かし
て7つから数えて行き、おあしを誤魔化すのがある。
結局は蕎麦屋に逆手にとられておあしを多くとられてしまう話。
チケット購入の時に指定席を選ぶために窓口の係りとの会話が長
引いた。
Aの8席とかBの7席とかCの6席とかいやいややはりBの7席に替
えてくださいとか選んでいるうちに、うやむやになって200円お釣り
をもらい損ねてしまった。

ぼやいていますね。 ぼや鬼君が。
博多は魚が新鮮で、はまちのお刺身が300円だったので購入し
たのだが、よく見ると養殖だった。
養殖の鯨はいないから今回も鯨を購入しておけばよかった。

彼岸花色のワンピース長けが短いので黒のスカート下(シュミーズ)
が3センチところによっては5センチ出ているのに気ずかずにずーっと
そのままで歩いていた。
そんな服かと思ったと知人に言われた時はほっとしたが
それにしても
それって変な服じゃないかな。
そーよね。
上四段「そ」が5つ続いています

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