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2007年06月30日

「すずめ」 箸やすめ・他愛ないことども( 3 )

ツタンカーメンのお墓から出てきたえんどうまめの子孫を
欲しいという人に郵送したり手渡したりしているが
収穫時の5月には実ったツタンカーメンのえんどうまめを
あちこちから沢山いただいてしまうので
食べきれなかったものは干して保存し
秋に種としてまた人に配ることにしている

3階のベランダにツタンカーメンのえんどうまめを干していると
おしゃべりなすずめたちがやってくる
誰も教えないのになぜすずめたちにツタンカーメンのえんどうまめが
ベランダに干してあることが分かるのだろう?
普段はほとんど見かけないすずめたちがどうやって見つけるのだろう?
常にめぼしいものを見つけて回るために
ここのベランダもすずめたちの散策ルートに入っているのだろうか?
人影がなくなると3羽〜5羽でにぎやかにさえずりながら
ツタンカーメンのえんどうまめをついばんでいる
毎年現れるすずめ全部に佐和音(さわね)ちゃんと言う名を付けて
様子をうかがっているが
網戸を閉め忘れて出かけて帰ってみると
明らかに佐和音ちゃんが布団の上や食卓で遊んだ跡が残されている
ほほえましいがちょっと困る
台所のボールで水遊びする佐和音ちゃんを見た
出て行く窓がわからなくなって網戸にへばりつき
ジュクジュク騒いでいる佐和音ちゃん
洗濯物のピンクのハンカチのドレスを着ていた佐和音ちゃん
時たま現れるカラスに中空でやられて
地面に落ちて即死する佐和音ちゃんもいる
猫も寄ってきてベランダの佐和音ちゃんを見つめている


神社で一番小さなピッコロオカリナを使って小鳥の歌を吹くと
すずめが何羽もやって来る
鳩もしっかり鳴き始める
木のてっぺんで1羽だけで呼応する高い声の鳥もいる
ピッコロよりも少し大きな3Gのオカリナの音でも
高い声の小さな鳥の親戚だと思って安心するのか
寄って来る鳥が多い
5Cのアルトのオカリナだとしばらくしーんとするが
カラスが牽制しにやってくる


オカリナで一つの音を長く伸ばし
それを何回も違った音程で続けようとする時
つまり西洋音階の何らかの曲を演奏する時
1つの音の出だしから最後までの音程を下げないようにし
確実に切れよく音を引き締め、美しくするためには
一定の息圧で息を吹き続ける必要がある
これを怠ると音が垂れ下がり
下品な不服声で文句を言っているような音になる
大音響のカラオケを使っていたり、多人数で他楽器と合奏をする場合
1つの音の初め(立ち上がり)と最後が独奏の場合より聞こえにくいので
1つ1つの音の始まりと終わりがうやむやにされ
とても気持ちの悪い音のまま1曲が終了してしまうことがある
朗読の時に「キリギリス」と言いたい場合
「イーギリスウー・最後のウーが下がる」と言うと気持ち悪いのと同じ
それは神社にやってくる鳥たちに教わった

私には、すずめのお宿でのんきに暮らしたい願望がある

投稿者 mari : 08:34 | コメント (1) | トラックバック

2007年06月29日

「10分間美容室」 箸やすめ・他愛ないことども ( 2 )

髪の毛が伸びて重くなってきたので
私鉄駅の通り道にある
10分間1000円の美容室に行って見ることにした
そこからはいつも魚を売りさばくようないきのいい
鯖鯖(さばさば)した声が聞こえてきていた


女性1人をまじえた手馴れたスタッフ3人で
にこやかにお客の勘所を押さえ
てきぱきと手早い粋な雰囲気を作り上げている
今からお神輿でも担ぐのかと思えるほど
元気のいい女性のスタッフが
思いどうりに遠慮なく鋏を入れてくれて
さっぱりと髪が切って落とされ
世間話も要約されて面白く
横の長さも前髪の長さもすべてよし
この10年間で
一番やって欲しかった髪型になった時はうれしかった


鏡の下の棚にささっと持ち物をいれドアを閉める
その下には電光掲示板で今日のニュースが流されている
3時間近くも時間を費やさなければならなかった美容院のように
出身地から始まって根掘り葉掘り尋問攻めにあうこともなく
人気のあるスタッフからけんもほろろにカットを断られなくてもすむし
となりのおばさんの退屈な自慢話を聞かなくてすむのが実によい

10分間美容室では
切った髪を掃除機のようなもので吸い取った後
まだ落ちていない細かい髪を
もう一度丹念に
昔の散髪屋さんで使っていた長い刷毛ではらってくれる

電光掲示板と毛髪吸い込み機
程よい加減にちぎられた(うるさくない)会話
昔ながらのレトロの長い刷毛
最後は普通の美容院のように
後ろの髪のし上がりを手鏡で見せてくれた


それにしてもお客は男性ばかりだった

投稿者 mari : 14:16 | トラックバック

2007年06月27日

「胡瓜」 箸やすめ・他愛ないことども( 1 )

太陽にぬくめられよく熟れた日向くさい胡瓜を
黄色い可愛い花々を落とさないように
とげにさされながらちぎって
「がりりリ、かぽーん、さくさく」と食べていたのは
子供の頃、川に泳ぎに行く途中の畑だった
胡瓜は程よく甘く喉の渇きをいやしてくれた
日本には平安時代からあったそうで
原産地はインド北部ヒマラヤ山麓
白イボ系の胡瓜が多く出回っているそうだが
品種のことには詳しくない
川の流れに浮かべて追いかけて遊び
冷えたところを母に胡瓜の酢の物にしてもらっていた
ここまではいいのだが
胡瓜が他の食べ物と一緒になったとたんに
近づきたくないものとなる
例えば巻寿司
入れた胡瓜のおかげで巻寿司が水っぽくなる
寿司めしと海苔と胡瓜が混ざってバッタ味に変身する
ひどい時にはほたるの味がする
もっとひどい時にはてんとう虫を噛んでいるようだ
もっともっとひどい時はカメムシも混じっている
どうしたことか胡瓜は彼らの匂いに似てくる
バッタとほたるとてんとう虫とカメムシ味の巻寿司は食べられない
3本も胡瓜を巻いたかっぱ巻きは見たくない
1本巻きならいいのか
いいわけないじゃない
散らし寿司にはグリンピースを入れて欲しい
バッタとほたるとてんとう虫とカメムシ
時々かまきり味にもなる胡瓜を散らして欲しくない

それともう一つ
お寿司とから揚げの中にいろどりの葉っぱのつもりで入れてある
ビニール製のかたい偽ものの葉っぱ
醜いし、邪魔だしくわえると痛いし、腹が立つので止めましよう


余談
博多では博多祇園山笠の男衆は祭りの期間は胡瓜を食べません
祇園信仰の祭神の神紋が胡瓜の切り口と似ているからだとか

投稿者 mari : 22:58 | トラックバック

2007年06月13日

山奥の水神(すいじん)様奉納コンサート

ほたる飛ぶ大池のほとり
世の中の喧騒から程遠い
蕎麦など食べさせる古民家の
信心深い御夫妻の願いで
八尾龍神(やつおりゅうじん・水神様)への奉納コンサートを
執り行なうことが出来た
時間が逆戻りしたような夜
ねぼけ鳥が寝言を言い
狐の嫁入りが灯をともして通りすぎ
古民家の2階の土人形たちが
足音を立てて笑いながら走りまわる
八尾龍神の祠(ほこら)は古民家を背にして右
金色の草の生えた土手に子供が笑うように立ち
左には大池が星と月のまなこを光らせている

祠と人々の間の境界線に立つ笛者は
懐かしさの中にすがすがしい鋭さの混ざった
雨を呼ぶと言い伝えられている石笛の音で磁場を清め
夜の霧を吸いながら
弥生の土笛やオカリナを使って
戯れると見せかけて格闘し
格闘すると見せかけて戯れる
かの国のパンソリか、浄瑠璃または浪花節の情か
はたまた謡曲の枯淡の心根が
土笛の音の流れの中からやってきて
池面を走り、林の中へすきとうった布を広げ消えてゆく
もはや天狗の力が身内に流れ込み
人の世の悲しみや苦しみの美しさがしぼり出された音が
骨の髄に響いて浄化された音へと昇天する

8匹の龍神は大池から夜空へ駆け登り
しばしの間大雨を降らせる

久しぶりに「どんぐりと山猫」のかたりも所望され
黄色い陣羽織を着た山猫や栗の木、少年や笛吹きの滝、茸たちの声が
夜の人々の澄んだ耳に木霊し
心のスクリーンでとんぼ返りをうつ

自分のことだけ安全確認
他人の老後の手助けは出来ず
やっと大事が発覚で世の中おとり込み中
自意識過剰の昨今に重ね
オーラ嗜好、夢嗜好の氾濫で
無意識過剰となり果てる

投稿者 mari : 08:36 | トラックバック

2007年06月09日

韓国映画「コーストガード」の監督キム・ギドク氏について

韓国映画「コーストガード/Coast Guard/原題 海岸線」
について書く前にキム・ギドク監督について触れてみたいと思う。
異端児、鬼才と呼ばれているキム・ギドク監督は、昨年、ポン・ジュノ監督の娯楽大作レ
ベルの映画「グムエル・漢江の怪物」が韓国内の多くのスクリーンを奪ってしまったこと
を批判し、韓国映画界から身を引くと宣言したが、後に謝罪した。
キム・ギドク監督は世の中で起こり得る惨事を、オセンチな、もってまわったきれいごとで
済ますことなく、しかもリアルな現実と幻想美(背後に古代的な霊的感覚がある)の溶け
合った芸術的完成度の高い映像作品にしている。
彼は工場労働者、海兵隊(5年間)、牧師志願、パリで画家修業、脚本家を経て35歳で
映画監督になっており、32歳までは映画を見たことがなかった。
彼の作品では、理不尽な事件や常軌を逸したねじれた愛憎劇が展開されるが、それは監
督が、殺人や強姦や監禁や自殺の愛好者であるからではなく、必要欠くべからざる場面な
のできちんと撮影しているにすぎない。
そう言うことを世の中にないもののごとく無視し忘却の彼方に追いやるのではなく、日常的
な意識にのぼらせておくことによって、かえって配慮の行き届いた判断が出来るようになる
のだと思う。
自分を醜くする悪には一切近づいたことがありませんなどと言って、自分も渦中にいるにも
かかわらず脇で嘲笑し、神に祈って問題を無視する人がいる。
惨事は愚かな他人ごとだと思い、自身にも関わってきていることだとは思っていない。
湖に浮ぶ寺で少年僧と老僧が人間の業と対峙して生きてゆく映画「春夏秋冬そして春」に
ついてクリスチャンである監督がインタビューに答えていたが、仏教は宗教と言うより習慣
や文化だと考えているそうだ。
少女(後の妻)への執着にのたうち回り、裏切った妻に手をかけ殺人を犯してしまう若い僧
を四季折々の風物詩としてだけ捉えても仕方なかろう。
若い僧の相手は少女であるから執着は女性の問題でもある。
物語の太い筋を追って周王山国定公園内で撮影された映画「春夏秋冬そして春」には目を
見張るような四季折々の美が否応なしにあふれている。
映画「コーストガード」は日夜、南北軍事境界線の湾岸警備兵として北のスパイを捕まえる
任務に就いている兵が、民間人を誤射してしまうところから事件が始まってゆく。
魚や草や海が自然に動く生きた躍動感のある美しさで捉えられ、民間人を誤射した兵や抱
き合っている最中に恋人を誤射された女性が、物狂いしてゆく物凄さには濃い哀愁と絶望
感を覚えさせられる。
反戦の意は声高に唱えるまでもなく、しごく当たり前のことではあるが、しかし目の前にあ
る警戒区域の国境線守備を解いて空想平和主義的に無防備にすることは出来ない。
領海侵犯に対しても昼夜、兵による監視、警備が行われている。
その現実をどう実際に捉えて処理していくかが、少なからず現場にいる警備兵によって問
われてくる。
自分たちは手を汚さず、現場で警備をし自分たちを守ってくれている兵を、殺戮加担者とし
て悪者にしても何も始まらない。
次回、映画「コーストガード」を取り上げる。

投稿者 mari : 11:03 | トラックバック