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2012年01月05日

T温泉行き 27年目 (今年で幕引きか?)

明日はもう小寒、日本海側は大雪が続いているようです。
例年ながら雪深い中で過ごした日々から、雪のないカラカラ天気のこちらに帰ってくるとまさに夢の中にいた感じで、今年は特に大震災があったせいか感慨深いものがありました。
T温泉では、毎年2日に新年会も開かれており、常連客の多くが出ているようで(私たちも最初に誘われ1回だけは出てみましたがその後は止めました)これは50年も続いているそうですが、その参加者のカップルが、帰るとき私たちと同じ送迎車で「今年はお宅のメンバーの人数が少ないように見えますが…」などと声をかけてきて、互いに知らん顔をしていながら、ちゃんと見、見られているものだなあ…と感じたものです。

さて私たちメンバー、確かに今年は最小になりました。出発時は7名でしたが帰るときは4人になってしまいました。36畳敷きの広間に(これも昔は中広間という名称で、宴会は大広間のほうでしたが、時代が変わり大広間は幾つかの小部屋に仕切られ野草庵という食事処になりこちらだけが広間として残った)です。
そのようなこともあって、この辺が潮時かなと思いました。
毎年同じ温泉と宿での、暮れから正月にかけての3泊4日の27年間、そこには変遷があり一つの歴史が見られます。
行基上人が発見開湯されたと伝えられる国内有数のラジウム温泉で、宿は400年以上の歴史を持つ由緒のある湯治宿、そこにたまたま生前の相棒と訪れ、今度は正月を過ごそうと発案して6人のメンバーで申し込んだのですが部屋はもう満員でやりくりがつかず、とりあえず中広間に通されたのが話の始まりでした。
1983(昭和58)年の事です。

客室の設えはないものの広くゆったりしているうえに窓も大きい。その代り全員一緒で合宿のようなものだから、一人静かにというわけにはいかないが、広いので気心も知れた者たちなのでそれぞれ勝手に振る舞うことにし、また皆働き盛りで共に飲み食いしようと合宿気分で集まってきた同士でもあるので、誂えの部屋とも言えた。それで次の年から予約の取り合いの心配のないその中広間を最初から希望することにしたのだった。
それから27年、集まる者も年を重ね、宿や温泉の設備(クワハウスとか言って村のオンセンターのような建物ができたりして、またそれが失敗して少し前に戻ったり)、また交通手段も(新幹線時代の前は急行ー東京から上野まで出てーそこから急行で小出まで行き、その後もバスで温泉までたらたら行ってました。新幹線時代になっても私たちはしばらく抵抗して在来線を使ってましたが、だんだん接続が悪くなったのでとうとう新幹線利用、しかも浦佐からのバスが無くなったのでタクシーか宿の送迎を頼むしかなくなってしまったのでした。)変遷変化し、それは政治や社会現象とも連動して、ここにフォーカスされた形で一つの歴史が辿れるのを知りました。最初の頃は朝出て、向こうには夕方ごろ着いていたのに、今は新幹線で1時間半、そこから送迎車で30分ほど、まさに通勤並みになりました。

最初に出かけた6人のうち、発起した我々と親しかったカップルが中心で、私の相棒が亡くなった後、一人は早く去って行ったものの、残る4人が今日まで残るメンバーである。その後枝葉のように兄弟(姉妹)親戚、友達の友達…といった風に芋づる風に伸び縮みして、一番多いときは、20人にも膨れ上がっていた(記憶では13人ぐらいと思っていたがメモを確かめるとそうではなかった)。それは彼らがよく行くという渋谷のバーのマスターの家族や従業員まで同行という年であり、その時は店のワインを大量に持ち込み(持ち込みも許されていた)、私たちは大いに普段飲めない名のあるワインをご馳走になったものである。(彼らはそれを積んだ車でやってきた)。
そして最近は、幼児の頃に連れられてきた子どもが成長して、伴侶や子を連れてくるようにもなってきたが、これも例外的でやはりこの行事もこの辺が限度かなと、思っているところである。
私の相棒が病を得て退職し、亡くなった年までの2年間、私たち二人はこの旅に参加しませんでした。それでもこの行事自体は続いていたのである。しかしもう一組の主要メンバーの一人が今回は加わらないことになって、振り返ると私自身も正月を過ごすのにあまりにぴったりの環境、快適であるのを良しとして、疑似故郷への里帰り…という気分でやってきたもののやはり一種のマンネリ、縛りを自分にかけていたのではないかと思い始めたのです。
それで次回はどうするか、このまま続けるかこれでピリオドを打つか、予約の申し込みをする頃まで各自考えて貰うことを提案したのだった。

最初のうち、折角の機会だからと皆で連句の歌仙を巻いたことも思い出が深い。
詩を実際に書いているのは私だけだが、職業は色々ですが文系が多く読書家もいるので、歌仙の規則を書いたものを渡し、それを参考にしながらであるが、皆苦しみながらもそれなりに楽しんでいたようだ。これもメモによると1979(昭和54)年から1987(昭和62)年、また1997(平成9)から1999(平成11)の11年も続いたようだ。大抵は36首の歌仙だが、参加者10人の時は百韻も詠んでいるし、50韻も一巻ある。旅行中完成しないときには持ち帰り、それを郵便で回したこともある。まだやっとワープロ時代で、パソコン普及などはその後の事である。
いろいろ書けばきりがないのでこの辺で止めますが、やはり日本だけでなく世界もまた転換期になったこの年、私たちの上にもある転換が求められているような気がしたのでした。

投稿者 kinu : 2012年01月05日 13:49

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